細川成之奉行人飯尾真覚奉書写(『戦国遺文 三好氏編』1号)
【原文】細川成之奉行人飯尾真覚奉書写(『阿波国徴古雑抄』)
阿州三郡御風呂銭事、本員数令承了、細々可勤其役之旨、清三郎・左衛門尉被仰付訖、其分所々可被相触之由也、仍執達如件、
寛正六
二月廿四日 真覚(花押影)
三好式部少輔殿
【読み下し】
阿州三郡御風呂銭の事、本員数承らしめおわんぬ、細々その役を勤むべきの旨、清三郎・左衛門尉に仰せ付けられおわんぬ、その分所々に相触れらるべきの由なり、よって執達件の如し、
【現代語訳】
阿波国三郡(三好・美馬・麻植郡)に賦課する御風呂銭のことは、その合計額を承りました。
念入りにその負担を勤めるべきであるということを、(主君・細川成之が)清三郎と左衛門尉にご命令されました。
そのことについて、所々に知らせていただきたいということです。
よって通達することは以上の通りです。
【コメント】
『戦国遺文 三好氏編』の1号文書です。
寛正六(1465)の文書で、応仁の乱以前のものです。
宛所の三好式部少輔は、戦国時代の三好山城守康長(笑岩)の先祖ではないか、という説もあります。
康長の息子が式部少輔を名乗っていたためです。
さて、この書状は、阿波国守護・細川成之の命令を、奉行人の飯尾真覚が、三好式部少輔へ伝達している文書です。
寛正六年(1465)、細川成之が、阿波三郡から「御風呂銭」を徴収することを決めました。
「風呂銭」は、『日本国語大辞典』などによると「銭湯の入浴料」とありますが、この史料に出てくる「御風呂銭」はそうではなく、守護が賦課する雑多な税の一つであろうと思われます。
三郡の郡代であったと思われる三好式部少輔は、その本員数(おそらく合計額の意)を、主君・細川成之に報告したようです。
成之は御風呂銭の徴収の役目を、家臣の清三郎と左衛門尉に命じた上で、三好式部少輔に対して「そのことを所々に知らせよ」と命令を下しています。
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