三好之長書状写(『戦国遺文 三好氏編』4号)
【原文】三好之長書状写(『大日本古文書石清水文書』所収辻村豊徳外四人所蔵文書)
池田遠江守殿
御宿所
八幡宮領摂州木代庄内朝川寺事、従先師仙室東堂譲被渡候処、彼霊文書記依申掠、六郎殿被成御下地了、雖然、訴訟半之事候間、年貢等、為名主百性中可拘置之由、堅被仰付候由、可被畏入候、恐々謹言、
(永正三年) 三好筑前守
十月十二日 之長
【読み下し】
池田遠江守殿
御宿所
八幡宮領摂州木代庄のうち朝川寺の事、先師より仙室東堂譲り渡され候処、かの霊文書記、申し掠むるにより、六郎殿御下知をなされおわんぬ、しかりといえども、訴訟半ばの事に候間、年貢等、名主百姓として抱え置くべきの由、堅く仰せ付けられ候由、畏み入れられ候、恐々謹言、
【現代語訳】
池田遠江守殿
御宿所
石清水八幡宮領である摂津国木代庄にある朝川寺の事は、先師(前の住職)から仙室東堂が(住持職を)譲り渡されたところ、あの霊文書記がウソを言って誤魔化したので、六郎殿(細川澄元)が(仙室東堂が住職だと認めるように)ご命令を下したのです。
しかし、訴訟はまだ決着していないので、年貢などは、名主・百姓たちは支払わずに手元にとどめておくようにと、(細川澄元が)堅くご命令になったということを、ご承知ください。恐々謹言。
【コメント】
永正三年(1506)ごろ、瑞祥寺に霊文書記という名の僧侶がいました。
霊文(りょうもん)が名前で、書記は寺の役職ではないかと思います。
『石清水文書 拾遺』48-14~19を読むと、その霊文書記が朝川寺の住職になろうと考え、相論が起こっていたことがわかります。
以下、『石清水文書 拾遺』も参照して、ことの次第を追いかけてみます。
朝川寺では、先師(前の住職)の遺言によって、仙室東堂という僧侶が住職をつとめていました(東堂は禅寺のトップの役職)。
ところが霊文書記はあちこちの人物にウソをついて、永正三年(1506)九月三日、強引に朝川寺に押し入り、仙室を追い出したようです。
朝川寺のある摂津国木代庄の領主、石清水八幡宮は、これを幕府に訴えました。
しかし相論は容易に決着せず、「訴訟なかば」の状態でした。
霊文書記を朝川寺から追い出すように、幕府から六郎殿(細川澄元)へ命令が下り、細川の配下である三好之長に命令が下り、さらに之長はこの命令を池田遠江守に伝達しています。
百姓たちは「とりあえず年貢は払わずに手元にとどめておけ」と命令を受けたようです。
三好之長がそうした命令を下すように伝えている池田遠江守は、おそらく木代庄の支配を担っている人物と見られます。
『戦国遺文 三好氏編』4号の文書は、永正三年十月十二日の出来事を記していますが、『石清水文書之六 菊大路家文書』87号によると、永正四年七月十日になっても、まだ霊文書記は、朝川寺に居座っていたようです。
「度々雖被成御下知、背 上裁、于今寺住云々」
(=何度も命令をしても、命令に背き、今まで寺に居座っているということだ。)
その後、霊文書記がどうなったのか、史料がないためわかりません。
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