細川成之奉行人飯尾之連奉書(『戦国遺文 三好氏編』参考4号)
【参考4】細川成之奉行人飯尾之連奉書(『猪熊文書』)
猶々此分片穂兵庫方へも申候、定可被申談候哉、近
日□□□□□□京都時宜可申候、
阿州上郡寺社領、今度大嘗会段銭未進事、公私御用多候、堅致催促、不日可進上仕之由、被成御奉書、近日可人下候、仍三好方より逸見兵庫方へ副状進之候、定可被申談候哉、若無沙汰、於在所者、致註進、可被仰付之由候、恐々謹言、
二月廿九日 之連(花押)
逸見豊後入殿
進之候
飯尾次郎左衛門尉
之連
逸見豊後入道
進之候
【読み下し】
なおなおこの分、片穂兵庫方へも申し候、定めて申し談ぜらるべく候や、近日□□□□□□京都時宜申すべく候、
阿州上郡寺社領、今度大嘗会段銭未進の事、公私御用多に候、堅く催促致し、不日進上つかまつるべきの由、御奉書を成され、近日人下すべく候、よって三好方より逸見兵庫方へ副状これをまいらせ候、定めて申し談ぜらるべく候や、もし無沙汰、在所においては、註進致し、仰せ付けらるべきの由に候、恐々謹言、
【現代語訳】
阿波国上郡(美馬郡・三好郡)の寺社領は、今度の大嘗会の費用である段銭を未進していますが、朝廷は公私ともに出費が多いのです。
厳重に催促し、すぐに進上するべきであるということを、(阿波守護・細川氏が)御奉書を作成されたので、近日中に使者を派遣します。
よって(郡代の)三好之長からも逸見兵庫へ副状を送ります。
きっと(一族で)相談してくださるでしょうか。
もし無沙汰(未進)の在所があれば、注進してもらって、(阿波守護・細川氏から)ご命令が下されるということです。恐々謹言。
追伸。このことは、片穂兵庫へも伝えました。きっと相談してくださるでしょうか。近日(以下、欠字)、京都時宜(将軍・足利義澄のお考え)をお伝えします。
【解説】
阿州の上郡(かみごおり)とは、阿波国の三好郡と美馬郡を指す。
京都の寺社が上郡に所有している領地に、大嘗会のための段銭(田んぼにかかる税)が賦課された。
大嘗会は天皇の即位式であるが、時代的にみて、1500年~1526年に在位していた後柏原天皇の大嘗会を指していると思われる。
父親の後土御門天皇が崩御すると、明応9年(1500)10月25日、後柏原天皇は践祚(即位)した。
しかし朝廷は財政難で、即位式である大嘗会がすぐにおこなえなかった。
そこで文亀元年(1501)閏6月2日、幕府は諸国に「御即位要脚段銭」を賦課した。
今回とりあげた史料は、それにまつわる文書である。
ちなみに、それでも段銭は思うように集まらなかったようで、後柏原天皇が大嘗会を挙行して正式に即位できたのは、ずっとのちの大永元年(1521)3月22日であった。
今回の史料でも、「阿州上郡の寺社領が、大嘗会のための段銭を未進(未払い)している」ということが問題となっている。
そこで阿波守護・細川成之の奉行人である飯尾之連から、上郡を支配する武士である逸見氏に対して、この未進問題を一族で相談してほしい、と要請が伝えられている。
未進問題については、「(阿波守護・細川成之が)御奉書を作成されたので、近日中に使者を派遣します」とあり、守護の奉書に加えて、「(郡代の)三好之長からも逸見兵庫へ副状を送ります」と書かれている。
この文書は2月29日付であるが、年号が記されていないため、いつごろ出されたものか推定を試みてみたい。
幕府が諸国に「御即位要脚段銭」を賦課したのが文亀元年(1501)閏6月2日であるから、1502年以降である。
また、発給者である飯尾之連が奉行人として活動しているのは、だいたい永正4~5年(1507~08)である。
『戦国遺文 三好氏編』では、この文書は永正5年(1508)2月23日付の【参考3号文書】の直後に収録されているが、飯尾之連の活動時期から考えても、永正5年(1508)ごろの可能性が高いものと思われる。
段銭が賦課されたのが文亀元年(1501)であるため、そこからあまり下らない時期と考えるのが妥当である。
ちなみに、このころの畿内は、「永正の錯乱」と呼ばれる細川政元の3人の養子たちによる抗争で、混乱の極みにあった。
以上、『戦国遺文 三好氏編』参考4号文書、細川成之奉行人飯尾之連奉書についてみてきた。
天皇が即位式をあげられないほどの朝廷の財政難と、寺社の段銭未進問題に関して、将軍・守護・奉行人・郡代三好氏・地元武士の逸見氏や片穂氏が対応していることが分かるのが、この文書ということになる。
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