【古文書を読む】鳥居丹波守忠燾書状 土岐山城守頼布宛 寛政八年カ
鳥居丹波守忠燾書状 土岐山城守頼布宛 寛政八年カ
【状態】シミ、35.7×48.7㎝
【翻刻】
貴札致拝見候、冷気
之節候得共、弥御堅固、
珍重存候、拙者儀、道中
無滞致在着候ニ付、
為御歓預示候趣、被入
御意儀、忝存候、恐惶謹言、
鳥居丹波守
九月廿三日 忠燾(花押)
土岐山城守様
御報
【読み下し】
貴札拝見致し候、冷気の節に候えども、いよいよ御堅固、珍重に存じ候、拙者儀、道中滞りなく在着致し候に付き、御歓びとして示しに預り候趣、御意に入れらるる儀、かたじけなく存じ候、恐惶謹言、
【現代語訳】
お手紙を拝見いたしました。寒い季節ですが、ますますお元気でおられて、おめでたく存じます。私のことは道中に問題なく、江戸に滞在していますので、それについてお祝いにお手紙を頂き、あなたのお心にかなったことは、ありがたく存じます。恐惶謹言。
【解説】
【1】鳥居忠燾について
鳥居丹波守忠燾(ただてる。1777~1821)が、土岐山城守に宛てた書状である。
彼は、関ヶ原の戦いに際して伏見城で戦死した徳川家康の重臣・鳥居元忠の子孫にあたり、鳥居家は譜代大名の名門であった。
忠燾は、下野・下総・大和・播磨に、あわせて3万石の領知をもち、下野壬生藩の第4
代藩主となる。
彼は、鳥居忠見(ただみ。1746~94)の二男として生まれ、幼名を燾三郎(とうさぶろう)といった。
兄・亀五郎は、早世している。
父・忠見は寛政6年(1794)5月12日、49歳で死去する。
父は嫡子であったが、まだ家督を継いでおらず、藩主の座にはついていなかった。
そこで忠燾は同年7月5日、藩主である祖父・忠意(ただおき。1717~1794)の嫡孫承祖(ちゃくそんしょうそ)となる。
これは、祖父から家督を相続することを指す言葉である。
しかしそれからわずか13日後の7月18日、祖父・忠意も死去してしまう。
忠燾は9月6日、鳥居家の遺領を継承し、12月16日、従五位下・丹波守に叙任される。
叙任された直後の寛政7年(1795)1月、大坂城の守衛の任務を命じられ、7月に大阪におもむく。
江戸に戻ってきたのは、翌年の9月であり、10月1日、江戸から下野壬生にくだった。
文化14年(1817)9月10日、忠燾は幕府の奏者番となる。
これは大名・旗本が将軍に拝謁する際などに、取次をつとめる役職であるが、譜代大名はここを振り出しに、若年寄や老中などの重職にのぼっていった。
ちなみに祖父・忠意も、老中をつとめた経験をもっている。
しかし忠燾は重職までのぼりつめる前に、4年後の文政4年(1821)7月27日、江戸の屋敷において45歳で死去し、駒込吉祥寺に葬られた。
【2】土岐山城守について
書状の宛所は、土岐山城守である。
土岐山城守という名前の人物は、歴史上に複数存在する。
しかし忠燾と同時代に生きた人物で、さらに下野壬生藩の近辺で活動した人物としては、上野沼田藩主・土岐山城守頼布(よりのぶ。1776~1837)が該当しそうである。
頼布は寛政2年(1790)7月2日、沼田藩の7代藩主となり、文化10年(1813)7月8日、隠居する。
そして天保8年(1837)3月8日、63歳で死去する。
【3】年次比定
この文書は書状であるため年号が書かれていない。
9月23日に書かれたことだけが記されている。
推測もまじえて、この書状がいつ書かれたものなのか、考えてみたい。
文書のなかには、「道中滞りなく、在着している」という文言がある。
在着は「到着して滞在している」という意味であり、「道中滞りなく」とあることから、彼がそれなりの距離を移動して、ある場所に滞在していることが分かる。
『鳥居家譜』(東京大学史料編纂所データベースで閲覧可能)には、忠燾が9月23日ごろに「移動」をしている記述が、2点ある。
1点目は、寛政8年(1796)9月1日、彼が大坂城の守衛の任務から戻って、江戸城に登城したという記述である。
そして前述のように、彼はこの1ヶ月後の10月1日、下野壬生に下向している。
2点目は、文化14年(1817)9月10日、幕府の奏者番に任じられている記述である。
下野壬生から江戸まで、いくらか移動をしたことは、間違いない。
この書状が、どちらの「移動」に関して述べたものか、断定はむずかしい。
しかし江戸と領地を往復することは、大名としてはありふれた行為である。
いっぽうでこの書状では、道中に滞りがなかったことについて、土岐頼布が「お祝いの手紙」をわざわざ送ったことが記されており、可能性としては、「道中」とは「大坂城から江戸に帰る道中」を指すほうに軍配をあげたい。
そう仮定すると、この書状は寛政8年(1796)9月23日に書かれたということになる。
このとき鳥居忠燾は23歳で、壬生藩主の地位をついだばかりであった。
いっぽうの土岐頼布は24歳で、沼田藩主になって6年たっている。
下野と上野は隣国で、また地図をみれば分かるが、壬生と沼田はそれほど離れているわけではない。
この書状からは、近隣の青年藩主どうしの交流がうかがえ、大阪から帰ったばかりの忠燾を頼布がねぎらったもの、と解釈しておきたい。
『寛政重脩諸家譜 第3輯』巻第五百六十、1055頁
『大日本近世史料 柳営補任 一』84頁
『鳥居家譜』
山田武麿 編『上州の諸藩 下』上毛新聞社、1982年、152~153頁
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