歌詞感想文 ReoNa/傘村トータ「Someday」

ReoNaさんの楽曲「Someday」の歌詞について、私の思いを書いてみたいです。
作詞者は傘村トータさんです。
私の解釈には自分流の主観も多くふくまれると思いますし、誤解やこじつけもあるかもしれないことを、はじめにおわびしたいと思います。

Someday
歌唱:ReoNa/作詞:傘村トータ(LIVE LAB.)/作曲:傘村トータ(LIVE LAB.)/編曲:堀江晶太

>タテカワユカは消えたかった
>今ここから消えたかった
>泣くとうるさいって殴られるから
>泣けなくなったんじゃないの
>泣けなくなんてなってないの
>私が選んで泣かなくなったの

>なけなしのお金を握りしめて
>ガラガラの始発電車に乗った
>ここではないどっかへ行きたかった
>どこにも居場所ないよ

>悩みも辛さも
>誰にも話せないまま
>一人で死んでくんだって思ったの
>朝焼けが綺麗だって震えたことは
>結局一度もなかったけど
>こぼれた缶ビールに映る
>つるつるした光は
>ちゃんと美しかった

以上が1番の歌詞である。
「タテカワユカ」という名前は、フルネームを使うことで視聴者に強いリアル感を与えつつ、漢字ではなくカタカナを使用することで、特定の実在の人物を連想させないようにする作詞者の配慮がある。
暴力によって自ら泣かなくなったというのは、自ら心を閉ざすことを選択せざるを得なかったという、ユカの過酷な状況を示している。
なけなしの「お金」という表現からは、なけなしの「力」や「勇気」もふりしぼって、電車に乗ったことを連想させる。
それは、どこにも居場所がない、つまりとにかく過酷な現実から逃げるための行動だが、ユカの乗った電車の行先は、「死」であることも想像される。
ユカの行動は、いわば自殺企図である。
辛いまま一人で死んでいくのだろう、という絶望感を抱いているユカだが、こぼれたビールの液体に映る朝日を見て「美しい」と感じる。
何かを美しいと感じるのは、「人の心」があるからだ。
朝焼けに感動するような元気はないけれど、ビールに反射する朝日を「美しい」と思う小さな心の動きは、まだ消えていない。
それは、ユカがいまだ人間らしい心を失っていないことを意味している。
そこに私は、ほんの小さな希望を感じる。
以下、2番の歌詞へとつながっていく。

>タテカワユカは逃げたかった
>今ここから逃げたかった
>何も理解しない大人たちは
>とても幸せなんじゃないの
>とてもハッピーなんじゃないの
>幸せすぎて可哀想なくらい

この冷めたような、大人を見下したような表現からは、ユカが過酷な現実にかなり絶望して、疲れ切っていることが感じられる。

>なけなしのお金を握りしめて
>乗ったガラガラの始発電車は
>私をどっかへ連れて行ってくれようとした
>そんな気がした

再び電車に乗るという場面が繰り返されるが、「ガラガラの電車」という表現は、絶望した彼女の空虚なさびしい心を感じさせる。
「どっかへ」や「気がした」とは、なんだか投げやりな表現であり、そこからユカは現実への執着、つまりは生きることへの執着が薄れているように思われる。
それだけユカは絶望し、疲労している。

>悩みも辛さも
>誰にも話せないまま
>一人で死んじゃうんだって思ったの
>夜明けが綺麗だって震えたことは
>結局一度もなかったけど
>白い肌に残る丸い跡は
>クレーターみたい
>きっとそこは月だった

ここで再び、ユカが自分が目にした光景を「美しい」と感じる描写が出てくる。
「白い肌に残る丸い跡」とは、涙の跡だろう。
辛くて流した涙がこぼれ落ち、腕や手に落ちたそのクレーターのような跡を見て、ユカはそれを「月」と表現する。
月とはやはり「美しい」ものだし、そして今いる世界とは異なる「別世界」でもある。
ユカが絶望のなかでも何かを「美しい」と感じる「人の心」を持ち、さらに「別世界」への希望を持っている描写からは、視聴者にもかすかな希望を抱かせる。

>逃げて 逃げて 逃げたくって
>どこも どこも 行けなくって
>助けて 助けて 言えなくって
>わかって わかって ただ祈った
>わかって わかって ただ祈った
>ああ

>なけなしの希望を握りしめて
>打ち明けた暴力と理不尽に
>大人から返ってきた言葉は
>「それも愛情なのよ」

この残酷な描写は、ユカの魂からの苦しみの叫びと、そして本来なら守ってくれるはずの大人からも突き放されるユカの絶望感を、視聴者に強く突き付ける。
ユカは、ここで今まで以上に強く「死」を意識したのではないだろうか。

>悩みも辛さも
>誰にも話せないまま
>一人で死んでくんだって思ったの
>私を遠くまで運ぼうとした電車たちは
>「また失敗しちゃったね」と
>申し訳なさそうにした
>ごめんね 私こそ
>Someday 逃げて逢おうね

「私を遠くまで運ぼうとした電車たち」という表現は、彼女が「死」を覚悟して、遠く=死後の世界へ行こうとしていたことを感じさせる。
ユカは、一人で死のうとしていたのだ。
しかしそこでユカは、「電車たち」が申し訳なさそうに「また失敗しちゃったね」と言っているように、感じるのである。
「また失敗」という言い方を使っているから、彼女が自殺企図により電車に飛び乗ったのは、一度や二度ではないことを想像させる。
「電車たち」は、「死ぬな!」「生きろ!」「命を粗末にするな!」などとは言わず、「失敗しちゃったね」と単に事実を指摘するだけで、決して自分の考えをユカに押し付けたりはしない。
さらに「電車たち」が「申し訳なさそうにした」という表現から、おそらく「電車たち」はユカに、「助けてあげられなくてゴメンね」「何もしてあげられなくてゴメンね」と言っているのだ。
「電車たち」は決して押し付けず、ただ寄り添うのみ。
そこにユカは、「電車たち」が自分に対して向ける「優しさ」「愛」を感じたのではないだろうか。
大人も誰も、人間は誰もユカを助けてはくれない。
「電車たち」だけが、ユカに寄り添っている。
しかしここで注意しなくてはいけないのが、「電車たち」はもちろん人間ではないから、意思を持ってユカに話しかけたりはしない。
「電車たち」がユカに寄り添っているというのは、ユカが自分で勝手に思ったにすぎない。
つまりユカは、誰かが誰かに寄り添うことこそが「優しさ」「愛」なのだという事実を、誰から愛されて教えられたわけではないのに、みずから見いだしたのだ。
それは、「死」を覚悟するようなどんな絶望的な状況でも、「生きよう」とする人間の強さを感じさせる。
人間は、誰からも愛されず暴力を振るわれる過酷な状況でも、何かを「美しい」と思うし、「生きよう」と思うのだ。
それこそが人間の持つ人間らしさなのだ、という作詞者の強いメッセージを感じる。
最後にユカは、「電車たち」に「ごめんね 私こそ Someday 逃げて逢おうね」と答える。
ユカは、自分に生きる希望を取り戻させてくれた「電車たち」に強く感謝し、さらにSomeday(=いつか)今の生活から逃げ出して、また君たち(電車たち)に会うんだ、という「生きる」ことへの決意を述べている。
今のユカにとっての現実は、確かに辛い過酷なものだが、それでもユカは、再び「電車たち」に会うことを生きる希望にして、生きる決意をした。
この歌詞で、ユカが絶望から生きる決意を抱くまでの過程は、視聴者に希望と感動を与える。
この歌詞が極めて優れた芸術であることは客観的事実であり、そして主観的には、私はこの「詩」がとても好きだ。

コメント

このブログの人気の投稿

映画感想文:「ぼくが生きてる、ふたつの世界」主演:吉沢亮

伊達綱村の古文書を読む