伊達綱村の古文書を読む
松平陸奥守(伊達綱村)書状 藤井宛
【状態】シミ、34.5×51cm
【翻刻】
一筆申上候、まつ〳〵
御きけんよく御さ
なされ候や、うけたま
ハりたくそんし上候、
こゝもとさむさつよく、
一昨夜ゆきふり、一尺
はかりつもり申候、
わたくし無事に
つとめ、今日は
覚範寺殿御位
はひおかみたてまつり、
御太刀・御馬代さし
上申候、首尾よく
はからひまいらせ候、
序なから申上候、
織部は度々そこ
(以下下段)
もとへまいり勤候や、
主馬大人しく、作法存
のほかよく、ことに主馬ハ
少つゝ用たしつか
ハれ申候、妹とも
そくさいのよし
うけたまハり候、
大慶の事に
御さ候、めてたく
かしく、
まつたいら
十日 むつのかみ
藤井へ
【読み下し】
一筆申し上げ候、まずまずご機嫌よく御座なされ候や、承りたく存じ上げ候、ここもと寒さ強く、一昨夜、雪降り、一尺ばかり積り申し候、私無事に勤め、今日は覚範寺殿御位牌、拝み奉り、御太刀・馬代差し上げ申し候、首尾よくはからいまいらせ候、ついでながら申し上げ候、織部はたびたびそこもとへ参り勤め候や、主馬おとなしく、作法存知のほか良く、ことに主馬は少しずつ用足し使われ申し候、妹ども息災の由、承り候、大慶の事に御座候、めでたくかしく、
【現代語訳】
一筆お手紙を申し上げます。まずはご機嫌いかがでしょうか。承りたく存じます。こちらは寒さが強く、一昨夜は雪が降って、一尺(約30cm)ほど積もりました。私は無事に法事を勤め、今日は覚範寺殿(伊達輝宗)のご位牌を拝ませていただき、御太刀・馬代を覚範寺に差し上げました。首尾よくとりはからうことができました。ついでながら申し上げます。織部はたびたびそちら行へって勤めているでしょうか。主馬は大人びており、作法は思いのほか良く、特に主馬は少しずつ用足しに使われています。妹も息災であると、承りました。めでたいことです。めでたくかしく。
【解説】
松平陸奥守から、藤井という人物に宛てた書状である。
内容は、①雪が30cm積もったこと、②覚範寺殿(伊達輝宗)の法事をおこなって位牌を拝み、覚範寺に御太刀・馬代を贈ったこと、③織部と主馬の働きについて、などである。
まずは、人名比定と年次比定を試みてみたい。
【1】人名比定
仙台藩は、初代・伊達政宗から代々にわたって、松平陸奥守を名乗った。
そこで、この書状を書いた陸奥守が誰であるのか、考えてみたい。
書状の宛所は、藤井という人物である。
仙台藩の歴史で、藤井と名乗った著名な人物は、3代藩主・伊達綱宗の側室・浄眼院(三沢初子。1639~86)に侍女として仕えた「藤井」という女性がいる。
藤井は、寛文4年(1664)から初子に仕えたと伝えられており、貞享4年(1687)10月6日、死去する。
この期間に陸奥守を名乗っていた仙台藩主は、4代藩主の伊達綱村(1659~1719)である。
この書状は、綱村が母親に仕えている侍女・藤井に宛てているが、もっと言えば、事実上は母親に対して宛てた書状であるとも言える。
さらに、書状には織部と主馬という人物が登場する。
書状によると、織部は藤井のところ、つまり母親初子のところへ勤めに行っており、また主馬は綱村のもとで雑用などをしていたらしい。
綱村には、織部と主馬という弟がいるため、書状にみえる二人は、綱村の弟であると考えられる。
織部は伊達村和(だて・むらより。1661~1722)で、幼名を鶴千代といった。
主馬は伊達宗贇(だて・むねよし。1665~1711)で、幼名を辨之助といった。
二人は寛文11年(1671)12月、ほぼ同時期に元服し、それぞれ織部、主馬と名乗った。
【2】年次比定
この文書は書状であるため、年号が書かれていない。
そこで、いつ書かれた書状であるのか、年次比定を試みてみたい。
まず、差出の松平陸奥守こと伊達綱村は、万治2年(1659)江戸に生まれて、寛文9年(1669)12月9日に11歳で元服し、陸奥守に任官する。
また、織部こと伊達村和は、寛文元年(1661)8月25日に生まれて、寛文11年(1671)12月19日、元服して田村織部顕孝と名乗るが、延宝3年(1675)閏4月15日、水沢伊達氏を継ぎ、伊達将監顕孝と名乗る。
さらに、主馬こと伊達宗贇は、寛文5年(1665)1月15日に生まれ、寛文11年(1671)12月28日、元服して石川主馬宗顕と名乗る。
田村とか石川と名乗っているのは、彼らが一度は伊達氏以外の家を継いだことによる。
年次比定の手がかりとなるのは、織部という名乗りである。
伊達村和が織部を名乗っていたのは、寛文11年(1671)12月19日~延宝3年(1675)閏4月15日という、わずかな期間である。
書状は、この4年弱の間に書かれたものと思われる。
さらに期間をしぼる手がかりになるのが、書状にみえる覚範寺殿(伊達輝宗)の法事である。
輝宗は伊達政宗の父親であるが、二本松城主・畠山義継に拉致され、天正13年(1585)10月8日、義継とともに命を落としている。
書状によると綱宗は、輝宗の法事をおこなって位牌を拝み、覚範寺に御太刀・馬代を贈ったという。
覚範寺は、輝宗の菩提を弔うために政宗が建立した寺であるが、政宗が国替えによって仙台に移ったため、江戸時代は仙台にあった。
この書状には、綱村が輝宗の菩提を弔う法事をおこなったことが記されている。
『伊達治家記録』には、伊達家の歴代当主たちが毎月8日、輝宗の月忌に法事をおこなっていることがみえるが、この綱村書状の法事は、何年の何月におこなわれたものであろうか。
書状には、「十日」と日付しか書かれておらず、何月に出されたものかも分からない。
以下、推測もまじえて、年月の比定を試みてみる。
書状には、雪が積もったことが記されており、つまり冬季であることが分かる。
すると、この書状にある輝宗の法事とは、10月8日の輝宗の命日(正忌)におこなわれた可能性が出てくる(旧暦10月は初冬)。
綱宗は藤井、実際は母親の初子に宛てて、法事を首尾よく執り行ったことを報告しており、毎月おこなっている月忌の法事だったら、わざわざ特筆するには値しなかったのではないか。
そう仮定すると、前述した伊達宗和が織部と名乗っていた4年弱の期間の、いつに該当するであろうか。
推測に推測を重ねることになるが、延宝2年(1674)10月の可能性が高いものと思われる。
この年は、輝宗の九十年忌に当たり、伊達家当主の綱宗にとっても、もっとも特筆に値するからである。
ちなみに、綱宗が領国のある仙台に初めて下向したのは天和元年(1681)で、それまではずっと江戸に住んでいた。
だから綱村は、江戸から仙台の覚範寺に宛てて、太刀と馬代(お金)を贈っているのである。
断定はできないが、この書状は延宝2年(1674)10月10日、伊達輝宗の九十年忌に当たって出された可能性が高い、と推測しておきたい。
【3】歴史的意義
延宝2年(1674)10月10日に書かれた書状であると推測したが、このとき伊達綱村は16歳である。
また弟の織部は14歳、主馬は10歳であった。
16歳の少年藩主である綱村が、母親の侍女である藤井に宛てて、輝宗の九十年忌という大役を無事に果たしたことを、嬉々として報告している。
事実上は、自分の母親に対して報告しているものと思われる。
喜びのあまり調子に乗ったのか、弟たちの働きとか、妹の様子にまで言及している。
母親の三沢初子は、貞享3年(1686)2月4日、48歳で死去する。
侍女の藤井は、初子の死後に尼となり、日性と称したが、貞享4年(1687)10月6日、死去した。
綱村の父親である3代藩主・伊達綱宗は、仙台藩にお家騒動である「伊達騒動」を引き起こして隠居しており、綱村は幼少で藩主の座についた。
成人した綱村は、独裁政治を推進し、藩主権力を強化したとされる。
しかし儒教を奨励してみずからも『論語』を講じ、伊達家の歴代当主の事蹟を記した『伊達治家記録』を編纂するなどの功績もあった。
ただし藩財政は逼迫し、町人からの借財、藩札の発行などを行う結果となった。
成人後は功罪のある綱村であるが、16歳で果たした大役を母親に報告する姿は、ほほえましいものがある。
【参考文献】
『家中由緒書 上 (宇和島藩庁・伊達家史料 ; 4)』近代史文庫宇和島研究会、1978年
『寛政重脩諸家譜 第4輯』榮進舍出版部、1917年、1160~61頁
『伊達治家記録 6 (仙台藩史料大成)』宝文堂出版販売、1975年
『伊達治家記録 11 (仙台藩史料大成)』宝文堂出版販売、1978年、19~21頁、294~95頁
『水沢市史 3 (近世 上)』水沢市史刊行会、1981年
『日本人名大辞典』
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