【哲学】自然はなぜ美しいのか?

 自然はなぜ美しいのだろうか。

言いかえれば、人はなぜ自然を美しいと感じるのだろうか。


自然は弱肉強食の世界だ。

ライオンはシマウマを食い殺す。

魚はエサをパクッと食べる。

鳥が虫をパクパク食べてしまう。

カブトムシが角でクワガタを吹っ飛ばし、自分だけ樹液をチューチュー吸ってしまう。


しかし、そんな自然を、人は美しいと感じる。

弱肉強食であっても、自然の営みを、人はむしろすばらしいとさえ思う。

ライオンがシマウマを殺すシーンを見ても、怖くて残酷だと感じることはあっても、ライオンが醜いとか悪いことをしているとは考えない。

クワガタを吹っ飛ばすカブトムシを、悪人だと非難する人はおそらくいないだろう。


自然が美しいと感じられる理由、それは自然は善悪が存在しない世界だからだ。

逆に言えば、人の世が醜い、人は醜いと感じるのは、そこに善悪の観念があるからだ。

善があるから、善の立場から見た好ましくない状態として、悪という存在が生まれた。

善があるから悪が生まれ、人には悪であり醜いところがあるじゃないかという考えが生まれたのだから、人の世は皮肉なものだ。


しかし、醜い人の世にも、メリットはある。

世の中が醜いから、それが悪であり間違っているからこそ、人は世の中をもっと正しいものに変えようと思う。

実際、まだまだ世の中はいろいろと悪いところはある。

しかし大昔は合法だった王様や貴族が一般人を殺すとか、人が人を奴隷として売り飛ばすとか、そういう行為は間違っているのだと人々は考えて、今では法的には禁止され、大昔よりは少しずつ世の中は良くなってきた。

醜いから、それを改善しようという気持ちが起こる。

人の世には、醜いからこその、メリットがある。

善悪により、人が幸せになることを目指す、それが人の世の幸福実現システムだ。

しかしそれは、人が人の世を、人を、醜いと感じてしまうという、悲しいデメリットを生んでしまった。


一方で自然は、人とは別のシステムで幸福実現を目指している。

それは、進化である。

進化することで、きびしい環境に適応する強さを身につける。

自然のきびしさに対抗できるその強さが、個人の幸福を実現していく。

ライオンはキバやアゴを強く進化させ、シマウマを食い殺せる強さ、生き残れる強さを手に入れた。

カブトムシは強い角やパワーを手に入れ、クワガタを吹っ飛ばし、樹液を独り占めできるのだ。

自然には善悪の代わりに進化という幸福実現システムが存在するから、善悪は必要なかった。

自然には善悪の対立という発想がなく、だからこそ彼らの営みを、人は美しいと感じる。

しかし、進化というシステムは弱肉強食の世界を生み、シマウマやクワガタは、弱者として死んでしまう場合もある。


人が醜く、自然が美しいのは、幸福実現のシステムが違っているからだ。

それぞれのシステムにメリットとデメリットがあるから、どちらが正しくて間違っているのか考えても、答えは出ないだろう。

どちらが正しくて間違っているか、そう考えてしてしまうのも、そもそも善悪のシステムで生きている人ならではの発想だろう。


「世界は残酷で美しい」。

これは人気アニメ『進撃の巨人』に出てくるセリフだ。

巨人が人を食い殺す世界で、登場人物がこのようにつぶやくのだが、まさしく自然を表現した言葉だと思う。

この作品では、人が自然の弱肉強食のシステムに組み込まれている。

しかし人は生き残るため、巨人に対して戦いを挑んでいく。

この戦いこそ、現実世界の私たちが、きびしい自然のなかで生き残るために文明と科学技術を発達させてきた、その戦いと同じものだ。

この戦いは、残酷で美しい自然と、優しくて正しいかもしれないが醜い人との戦いとも言えそうだ。


善悪のシステムについて前述したが、善から悪が生まれたのは皮肉だ、と私は言った。

自然に対する人の戦いも、結果的には美から醜が生まれたのだから、これまた皮肉なことである。

美とか醜という観念がそもそも人の世の善悪という観念によって生まれるのだとすれば、自然や人が美だの醜だの、善悪だの、そんなことを論じても意味はないのかもしれない。

しかし、人として、私はこれだけは言える。

「それでも世界は美しい」。


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