【哲学エッセイ】運命は必然じゃなく偶然で出来てる?~YUKIの「JOY」と考える人生論~

「運命は必然じゃなく偶然で出来てる」という印象的な歌詞がある。

YUKIの「JOY」という歌の一節だ。

今回のエッセイでは、人間の運命の必然と偶然について、考えてみたい。


Wikipedia「JOY (YUKIの曲)」によると、原曲を蔦谷好位置(つたやこういち)が作詞し、YUKIの加筆による変更が少しあるということだ。

ライブでは「運命は必然という偶然で出来てる」と歌詞を変更して、YUKIは歌うのだという。

前者の歌詞なら「運命は偶然」。後者なら「運命とは、必ずそうなると結果が決まっている。しかし運命が訪れること自体は、偶然の産物だ」と私は解釈している。


あまり言葉の解釈にこだわっても意味はないが、意味のないことを考えて遊ぶのがこのエッセイの目的なので、「運命は偶然か、それとも必然か?」を論点にお話を進めていきたい。


言葉の定義として『日本国語大辞典』によれば、「必然」とは「必ずそうなること。そのように帰着するに決まっていること」とある。

「偶然」とは「他のものとの因果関係もつながりもはっきりせず、予期しないことが起こること。また、そのさま。思いがけないこと」とある。

では、「運命」とは「必然」と「偶然」、どちらで出来ているのだろうか?


ちなみに「運命」の定義は、「人間の意志を越えて、幸福や不幸、喜びや悲しみをもたらす超越的な力。また、その善悪吉凶の現象。巡り合わせ。運。命運。転じて、幸運、寿命、今後の成り行き」とある。

なんとなく意外だが、この定義は「偶然」に近いニュアンスを感じさせる。

なんとなく「運命」と言えば「必然」のように、私はイメージしてきた。


しかし『日本国語大辞典』は運命の語誌を解説しており、「近代の英和辞書ではfortune の訳語としても用いられるが、西洋からもたらされた運命論と結び付き、fatality の訳語として「宿命」の意が主流になる。現代では、「宿命」か「行く末」の意味で用いられる」とある。

現在では「運命」は「必然」に近いニュアンスの言葉だが、近代(戦前くらいまで)の日本ではどちらかと言うと「偶然」に近い意味だったらしい。


つまり「運命」は語義としては、「必然」と「偶然」の両方の意味を持っているということだ。

これは歴史とともに「運命」を解釈する思想が変化したのではなく、「どういうもの、状態を指して『運命』と呼ぶか」という、いわば運命という言葉の使用法が変化したものだと思う。

そういう変化を経て、「必然」と「偶然」の両方の意味で使われてきた言葉を、「必然なのか、偶然なのか」と論じても意味はない。

しかし繰り返すが、無意味なことを論じて遊びたいので、さらに連想を続けたい。


現代の日本人が抱く「運命」という言葉のイメージや用途は、やはり「必然」だろう。

まさに「必ずそうなる」ことであり、逃れられないことであり、変えようがないことなのだ。

しかし、本当にそうだろうか?

以下、無意味な考察を試みてみよう。


突然だが、全ての現象は、物理法則に従って起こる。

「どうしたらいいのだろう?」という目の前の課題について、主体的に自主的に考えて結論を出したとしても、実はそれは脳内における様々な物理法則に従って出された結論である。

また、行動して起こった結果も、物理法則に従って起こる現象なのだから、当然の結果である。


「私」がこの世に誕生してから、「私」という人物の遺伝子によって作られた脳は様々な経験をし、そのたびに考えながら成長し、いまここに「私」がいる。

しかし出発点の遺伝子は「初めから与えられた設計図」であり、主体的に獲得したものではない。

そして誕生後の経験も、すべて環境によるもので、そこに主体性はない。


人間は生まれてから死ぬまで、1ミクロンの主体性もなく、つまりは人生とは逆らえないもの、初めからすべて決まっている「運命」みたいなものなのだろうか?

スタートの遺伝子は与えられた要素、経験も環境という外部から与えられた要素だ。

そして「私」の遺伝子によって設計された脳が、ある出来事に直面してどのように考え判断し行動するのかも、脳内の物理法則という、いわば「必然」によって初めから決まっているのだろうか?


「私」がどう考えて行動するか、初めから決まっているのだとしたら、結果も初めから決まっていることになり、人間の人生は初めから全部決まっているもの、つまり「運命は必然で出来ている」ということになるのだろうか?

人生は、すべて「お釈迦様の手のひらの上」でなされるような、初めから決まっているものなのだろうか?


もしそうなら、人生は恐ろしくつまらない。つまらなすぎて怖いくらいだ。

それでは人間が、みんな操り人形みたいなものではないか。


ここで『日本国語大辞典』の「必然」と「偶然」の定義を思い起こしてみよう。

「偶然」の定義を分かりやすく言うと、「因果関係がはっきりしない。予期できない。思いがけない」ということだった。

しかしこれは人間の視点から見たもので、「はっきりしない」とか「予期できない」とか「思いがけない」とか、それは人間の推測能力に限界があるからだ。

推測力が足りないから「予期できない」だけで、実はすべて物理法則に従って起こるのだから、だとすればこの世界に「偶然」など存在しないことになる。

すべては「必然」ということになる。


では、「運命」とは偶然ではなく必然で出来ており、人生もすべて「お釈迦様の手のひらの上」的な、つまらんむなしいシロモノなのだろうか?


ここで、遺伝子について思い返してみよう。

遺伝子は生命のスタートラインだが、これとて親から与えられたものだ。

しかし、一卵性双生児を除き、遺伝子は世界に一つしかなく、全てオリジナルである。

他者から与えられた設計図だが、遺伝子が世界に一つのオリジナルである以上、それは「100%その人のオリジナル要素」と言えるのではないか。

その「オリジナル要素」である遺伝子という設計図を持ってこの世に生まれた瞬間から、人は様々な経験を積み、そして脳内の物理法則に従って判断し、結果が起こり、成長していく。

つまりスタートラインがオリジナルである以上、その後の判断は「全てオリジナル」である。

つまり人生は全て物理法則に従って進行しては行くけれど、全てお釈迦様が決めているわけではない。

決めているのは、オリジナルな「私」の脳だ。

「私」が自由に判断して、行動しているのだ。


ただし自由とは言っても、その判断内容は、くどいようだが物理法則の産物で、必然の産物である。

では、人生とは、人間とは、果たして自由なのか?それとも全てお釈迦様に決定されている不自由なものなのか?


この問いに私は、「自由を強制されている」と答えたい。

全てオリジナルの脳によって自由に決めているが、判断内容も結果も物理法則に縛られる。

ただしスタートラインの遺伝子はオリジナルだから、全てオリジナルの判断であり、自由である。

例えるなら、親になにか相談したら「自分のことだから、自分で決めなさい」と言われてしまったのと似ている。

自分で「自由」に決めることを親から「強制」されているのと似ている。


では人生とは自由なのか不自由なのか?

人生の結果が物理法則の結果なら、それは必然であり、不自由なのだろうか?


・・・けっきょく、よく分からん。


話が脱線し、論点が恐ろしく混乱してきたので、そろそろ話を締めたい。

「必然か偶然か」や「自由か不自由か」という問いは、言葉の遊びであって、二者択一する必要はない。

見方によっては「必然」とも「偶然」とも言える。

見方によっては自由とも不自由とも言える。

一つの物体に、右からライトを当てた時と、左からライトを当てた時で、姿や影が違った形に見える。

言葉の違いとは、そんな違いのようなものだと思う。


人生を「自由を強制されている」と怪しげな言葉で表現してもみた。

僕はこの手の、一見すると矛盾するような面妖な言葉が好きなのだ。


やはり、YUKIの「運命は必然という偶然で出来てる」という言葉が、僕は好きだ。

結果は全部決まってるし、だけど、それを全部自分で決めているのだから。


※今回のエッセイは、恐るべき論点の混濁と飛躍が見られますが、飲酒して書いたものではありません。

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