細川澄元書状(『戦国遺文 三好氏編』11号)

 

【原文】細川澄元書状(「岡本文書」)

去六月廿四日合戦、東条摂津守打死候、忠節無比類候、然間息鶴法師召上、一段可褒美候へ共、幼少事候間、先不能其儀候、国中所々知行分事、無相違被仰付、別而被懸御目給申沙汰可悦入候、此由能々可有披露候、尚三好筑前守可申候、謹言、

(永正四年)

   十一月五日     澄元(花押)

  岡本九郎左衛門尉とのへ

 

【読み下し】

去る六月二十四日の合戦、東条摂津守打ち死に候、忠節比類なく候、然る間、息鶴法師召し上げ、一段褒美すべく候えども、幼少の事に候間、まずその儀にあたわず候、国中所々知行分の事、相違なく仰せ付けられ、別して御目に懸けられ、申沙汰を給わり、悦び入るべく候、この由よくよく披露あるべく候、なお三好筑前守申すべく候、謹言、

 

【現代語訳】

去る六月二十四日の合戦で、東条摂津守が討ち死にしました。忠節は比類ないものです。それなので、息子・鶴法師を呼び寄せて、特に褒美を与えるべきですが、彼は幼少なので、まずはその必要はないでしょう。(将軍足利義澄が)播磨国中の所々の知行分の支配を、相違なく認めてくださって、特にお目にかけてくださって、取り計らっていただき、悦ばしいことです。このことをよくよくあなたの主人(鶴法師か)に披露してください。なお三好筑前守(之長)から申し伝えます。謹言。

 

【コメント】

細川京兆家の細川澄元(14891520)から、岡本九郎左衛門尉へ宛てた書状である。

永正4(1507)623日の「永正の錯乱」に関係する史料と思われる。

この日、管領・細川政元が暗殺され、以後、彼の三人の養子である澄元・澄之・高国による争いが始まる。

この史料は、その翌日に起こった合戦で、東条摂津守が討ち死にしたことを伝えている。

『兵庫県史』は、彼を播磨国加東郡東条谷の東条氏であると推測している。

この史料は播磨赤穂地区(赤穂郡)に伝わる「岡本文書」に所収されており、加東郡と赤穂郡は隣接しているわけではないが、どちらも播磨国であるため、『兵庫県史』の解釈に従いたい。

東条摂津守は、澄元に従って戦い、討ち死にしたようである。

遺児・鶴法師は幼少であったという。

将軍・足利義澄は、その遺領を鶴法師に安堵したものとみられる。

「播磨国中の所々の知行分の支配を、相違なく認めてくださって、特にお目にかけてくださって、取り計らっていただき…」という記述は、そのことをうかがわせる。

この文書は、摂津守の討ち死にから4ヶ月以上たってから出されている。

遺領相続の手続きがおこなわれるまでに、それだけの時間を必要としたようである。

文書の最後に、三好之長から詳細を申し伝えると記されている。

澄元は之長らを動員して、81日に澄之を討ち破り、細川京兆家の家督を継いでいる。

澄元が宛所とした岡本九郎左衛門尉という人物については未詳であるが、鶴法師を後見する立場にいる、東条氏の一族か重臣ではないかと推測しておきたい。

 【参考文献】

『兵庫県史 史料編 中世3128

『国史大辞典』


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