市原国春書状案 3点(『戦国遺文 三好氏編』8~10号)
【8】市原国春書状案(『九条家文書』)
九条殿御寺嵯峨往生院領田地山林等幷当坊主私領之事、其方御違乱之由候、太不可然候、従 御家門筑州江被仰旨候、就其無相違可有知行之由被申候、殊当坊主私別而申合儀候、御違乱可被停止之由、自私堅可申由候也、恐々謹言、
(永正四年) 市原出雲守
九月七日 国春判
【読み下し】
九条殿御寺嵯峨往生院領田地・山林等ならびに当坊主私領の事、その方御違乱の由に候、はなはだしかるべからず候、御家門より筑州へ仰せらるる旨候、それにつき相違なく知行あるべきの由申され候、ことに当坊主私に別して申し合わする儀候、御違乱停止せらるべきの由、私より堅く申すべき由に候也、恐々謹言、
【現代語訳】
九条家が支配する御寺である嵯峨往生院領の田地・山林等ならびに往生院の坊主の私領について、あなたが違乱(横領)したということである。
非常に不適切なことである。
御家門(九条家)から筑州(三好之長)に、訴えがあった。
それについて、相違なく九条家が知行すべきであると、三好之長は申された。
ことに、往生院の坊主から私(市原国春)に、特に相談があった。
違乱をやめるように、私から堅く申すように、ということである。
【9】市原国春書状案(『九条家文書』)
往生院領幷当坊主私領之事、吉田方雖違乱候、為御家門筑州江依被仰、如如先々年貢已下早々寺納あるへき由、堅可申付旨候、無沙汰有間敷候、恐々謹言、
(永正四年) 市原出雲守
九月七日 国春判
往生院百性中
【読み下し】
往生院領ならびに当坊主私領の事、吉田方違乱候といえども、御家門として筑州へ仰せらるるにより、先々の如く年貢已下、早々寺納あるべき由、堅く申し付くべき旨候、無沙汰あるまじく候、恐々謹言、
【現代語訳】
往生院領ならびに、往生院の坊主の私領の事は、吉田(隼人)が違乱(横領)しているが、御家門(九条家)から筑州(三好之長)に訴えがあり、先例の通りに年貢以下を往生院に納めるべきであると、堅く命令せよということである。
無沙汰(年貢を納めないこと)があってはならない。
【10】市原国春書状案(『九条家文書』)
(端裏書)
「就往生院之儀三吉下知 永正四」
就往生院領之儀、筑前守申付候間、先日以折紙申候処ニ、御承引あるましき由候、不可然存候、更ニ御違乱無謂事候、しかと御返事承候て、憑候者ニ可申聞候、急度彼領山林等可止御綺候、恐々謹言、
(永正四年) 市原出雲守
九月十六日 国春在判
吉田隼人殿
【読み下し】
往生院領の儀につき、筑前守申し付け候間、先日折紙をもって申し候ところに、御承引あるまじき由候、しかるべからず存じ候、さらに御違乱いわれなき事に候、しかと御返事承り候て、憑(たの)み候者に申し聞かすべく候、きっと彼の領山林等、御綺(おいろい)とどむべく候、恐々謹言、
【現代語訳】
往生院領のことについて、筑前守(三好之長)が命令したので、先日折紙(【8】の市原国春書状カ)でもって申したところ、承知してくれないということである。
不適切なことであると思う。
さらに違乱(横領)することは、いわれのないことである。
しっかりとあなたからの御返事を承って、あなたへの使者に申し聞かせるつもりである。
必ず往生院領の山林などの、違乱をやめるべきである。
【解説】
【8】は、三好之長の家臣と思われる市原国春の書状案(書状の写し・控え)である。
内容は、
「九条家の支配する寺である、嵯峨往生院の領地が横領されたと、九条家から三好之長に訴えがあった。横領をやめよ」
というもの。
宛所は書かれていないが、これは横領をしている人物に宛てて書かれた書状である。
【9】によって、その横領をしている人物は、「吉田」という名前であることが分かる。
市原は、往生院領の百姓たちに対して、
「吉田が横領しているが、年貢は九条家に納めよ」
と命令している。
【10】によって、この横領は永正4年(1507)9月の出来事であり、横領した人物は「吉田隼人」であることが分かる。
吉田隼人は、【8】の市原国春書状案(三好之長からの横領停止命令を伝える)を受け取っても、横領をやめなかったようである。
そこで再び、吉田に対して、横領停止の命令が伝えられた。
【10】の端裏書(文書の右端の裏側に書かれた情報)には、
「就往生院之儀三吉下知 永正四」
とある。
「往生院領が横領されたことについて、三吉からの命令。永正4年(1507)」
の意である。
三吉は三好のことであり、これは九条家の人間が書いた情報である。
九条家からの訴えを受けているため、三好之長が当時の実力者であったことが分かるが、一方で名字を当て字で書かれるあたり、まだ人々からの認知度が低かったのかも知れない。
ちなみに、これらの文書が書かれた永正4年は、ちょうど「永正の錯乱」と呼ばれる、細川氏の内訌が起こっていた時期であった。
6月、細川政元が暗殺されると、細川澄之によって細川澄元・三好之長たちは、京都を追われる。
しかし、彼らは8月には、京都を奪還している。
そうした情勢下の9月に出されたのが、これらの書状である。
「永正の錯乱」については、Wikipediaを参照のこと。
コメント
コメントを投稿