歌詞感想文 ReoNa/傘村トータ「テディ」
ReoNaさんが歌う「テディ」について、その歌詞への個人的な思いを書いてみたいです。
作詞は傘村トータさんです。
かなり主観的な感想やこじつけもあると思いますので、もし誤った解釈などがありましたら、申し訳ないです。
ちなみに、この「詩」は背景になったストーリーがあまりはっきりと描かれていません。
しかし私は、これは傷ついて不登校になった「君」へ、「僕」がぬいぐるみのテディベアの「くま」をプレゼントした、という背景があると思っています。
「僕」は、「くま」をとおして、「君」に寄り添おうとしたのだと思います。
それでは以下に、歌詞への個人的な解釈を書いていきたいと思います。
「テディ」
歌唱:ReoNa/作詞:傘村トータ(LIVE LAB.)/作曲:傘村トータ(LIVE LAB.)/編曲:堀江晶太
>でこぼこの形になった心を
>綺麗なハートに戻すには
>どれくらいの力を込めて
>君の心を削ろう
「君」は、心がでこぼこになってしまうほど、傷ついている。
おそらく、心無い誰かから傷つけられたのではないだろうか。
「君の心を削ろう」とは、彫刻刀やトンカチを使って、でこぼこにゆがんでしまった「心」を癒したい、という比喩だ。
「どれくらいの力を込めて」と、力の入れ具合を思案している表現からは、それだけ傷ついた「心」を思いやっている「僕」の優しさが感じられる。
>枕元に置かれたくまが
>全部知ってるみたいに
>心細い夜の内側を
>君と見届けたいよ
この表現から、「僕」は「くま」ではなく、両者は別々の登場人物であることが分かる。
また、「くま」は枕元に置かれている存在だが、「僕」は「隣」にいる存在である、という違いもある。
「全部知ってる」ということは、「くま」は「君」の心の苦しみも全部知っているということだ。
「僕」はもちろん、「君」の苦しみのすべてを知っているわけではない。
でも、それでも「くま」のように、夜に心細くて苦しんでいる「君」の「心」に寄り添いと思っているのだろう。
>僕は手を引かない
>僕は背を押さない
>僕は隣にいるだけ
>君が気づくまで
>「本当は生きたい」
>「本当は笑いたい」
>君が誰にも言えないその言葉を
>僕は 僕だけは拾うよ
「僕」は、「君」が言えなくても心では思っている「本当は生きたい、笑いたい」という言葉を、「拾う」と言っている。
「拾う」という表現には、そっと耳をかたむける、というような優しい言葉の響きがある。
「僕は 僕だけは」と強調しているのも印象的だ。
>でこぼこの形になりそうな君を
>綺麗な人型に保つには
>どれくらい冷たい氷で
>君の芯を冷やそう
人のかたちを保てないほど、でこぼこになってしまいそうな状態とは、傷ついた哀しみや、怒りや、さびしさや、すべてのつらさが爆発しそうな、不安定な心の状態のことだろう。
「僕」は冷たい氷で、その熱くなった「君の芯」を冷やそうとしている。
「芯」とは、きっと傷ついてぼろぼろになってしまった「心」のことだろう。
熱が出たとき、おでこにそっと冷たいタオルを乗せてあげるような、そんな優しさを感じる。
「どれくらい冷たい氷で…」と、冷たさの程度を思案している表現も、「僕」の思いやりを表しているのだろう。
>枕元に置かれたくまが
>何も言わないことに
>ほっとする時間の温かさを
>僕も知ってるから
ここからも、「くま」と「僕」が別人であることが分かる。
枕元の「くま」が、何も言わず、ただ寄り添ってくれることに、ほっとすることを、「僕」は知っているらしい。
つまり、きっと「僕」もぼろぼろになるほど、傷ついた経験があるのだろう。
だからこそ「僕」は苦しんでいる「君」に共感し、だからこそ、ただ「君」に寄り添うという接し方をしている。
かつての「僕」にも、ただ寄り添ってくれる「くま」のような何かが、存在したのかもしれない。
>僕は道を引かない
>僕は夢を推さない
>僕は隣にいるだけ
>君が思うまで
>「もうひとりも許せる」
>「もうひとりで眠れる」
>君がまだ言えないその言葉を
>僕は 僕はただ待ってるよ
「もうひとりも許せる」の「許せる」とは、一見すると意味がよく分からない表現だ。
これは、「もうひとりでもだいじょうぶ」「ひとりでもやっていける」と、「君」が自分で自分にOKすることではないだろうか。
つまり、「君」はまだ一人では不安になってしまうし、一人では眠れないのだ。
だから、「くま」が寄り添って、いっしょに眠ってくれる。
さすがに、「僕」がいっしょに添い寝するわけにはいかないから、かわりに「くま」が寄り添ってくれる。
「君」が自分自身に「もうだいじょうぶだ!」とOKを出せるまで、「僕」はただ待っている、という。
「僕は 僕はただ」という繰り返す表現が、すごく印象的で、思いやりを感じる。
>抱き締めても温もりのない
>時が経つと千切れてしまう
>それでも無いよりよかったと
>思ってくれるといいな
「温もりのない」とか「千切れてしまう」とは、ぬいぐるみの「くま」のことだ。
そのぬいぐるみのことを、「無いよりよかったと 思ってくれるといいな」と、すごくひかえめな言い方をしている。
ひかえめということは、自分勝手に期待を押し付けたりはしていないのだ。
「このぬいぐるみをやる!いやされるだろ!」というような押し付けではない。
ここにも、ぬいぐるみをプレゼントした「僕」の優しさを感じる。
>僕は何も引かない
>僕は何も足さない
>僕は隣にいるだけ
>君が歩けるまで
>「本当に行きたい」
>「本当は生きたい」
>君がやっと言えたその言葉を
>僕は隣で聞いてたよ
「本当に行きたい」とは、また学校に行きたいという、エネルギーが復活することだろう。
「本当は生きたい」とは、これまでの「君」が「死にたい」と思うほど、傷ついて苦しんできたことを感じさせる。
「行きたい」と「生きたい」という、読みの音が同じ言葉を使っているが、きっと「君」にとって、学校に「行く」ことと、「生きる」ことは、同じくらい大事なことなのかもしれない。
逆に言えば、苦しんで、学校に行けなくなって、それで生きることもつらくなっていたのだと想像される。
>僕は君の夢も知ってたよ
これが、この歌詞の最後の言葉だ。
「夢」を知っているとは、どういう意味だろうか?
人がどんな「夢」を見るかは、その人が経験して感じたこととか、好きなこととか、思いとか、色々な心の働きを表していると思う。
苦しみも、「君」がいろんなことを思って、感じてきたことを、その「誰にも言えなかった心の声」を、みんな「隣」で聞いてきたよ、と「僕」は言っているのではないだろうか。
あるいは、本当は学校に行きたいとか、死なずに生きたいとか、さらにその先へ「夢」を持って歩いていきたいとずっと思い続けてきたことを、「知ってたよ」と言ったのかもしれない。
ここで、第3節と第7節に出てくる下記の歌詞について考えてみたい。
>僕は手を引かない
>僕は背を押さない
>僕は隣にいるだけ
>君が気づくまで
>僕は道を引かない
>僕は夢を推さない
>僕は隣にいるだけ
>君が思うまで
「僕」は、「君が気づくまで」「君が思うまで」は、ずっと「隣」で寄り添うという態度をとっている。
「僕」は、「君」が自分の夢に気づいたり、夢について思ったりするまで、ずっと「隣」にいるよ、と言っているのではないだろうか。
そして第11節で「君」は、「本当に行きたい」「本当は生きたい」と、やっと言えるまでになった。
最終節の「僕は君の夢も知ってたよ」とは、「君の思いも苦しみも、全部知ってたよ」という意味もあるのではないか。
これは、心にエネルギーが復活してきて、再び立ち上がろうとする「君」への、ちいさなエールだろう。
それまでずっと「隣」にいる以外は何もしてこなかった「僕」が、ここではじめてエールをおくっているのだ。
「僕」は、「君」がもう一人でもやっていける、もう「僕」が「隣」で寄り添わなくてもだいじょうぶだ、と思ったのだろう。
この「詩」で、「君」が立ち直っていくまでの「僕」の態度は、一貫して「何も言わない 何も押し付けない ただ寄り添うだけ」というものだ。
これは「Someday」に出てきた「電車たち」と同じ態度だ。
人が人を救うときの優しさとは、こういう接し方なのかもしれない、と私は思う。
そして、ReoNaさんが歌う「テディ」の最終節、「僕は君の夢も知ってたよ」という、そっとささやくような言葉を聴くと、私はいつも涙がにじみ出る。
作詞と作曲をされた傘村トータさんと、編曲を担当された堀江晶太さんと、それを歌い上げたReoNaさんの、踊るようなすばらしいお仕事に、改めて深く感謝したい。
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