①愛着障害と毛利元就と織田信長:幼少期・思春期における家族関係と愛情 病跡学

①愛着障害と毛利元就と織田信長:幼少期・思春期における家族関係と愛情
【1】大河ドラマにみる毛利元就の生い立ち
戦国時代、毛利元就は幼くして父母や兄を相次いで失って、孤児のような身の上となった。
そんな彼を育てた「杉の大方殿」という女性がいた。
大河ドラマ「毛利元就」では、松坂慶子さんが演じていた。
松坂さんは大物、大御所の大女優であるから、ドラマ制作陣が大方殿を最重要人物と認識していたことは、疑いない。
幼少期の元就は、森田剛さんが演じていた。
森田さん演じる元就は、クソガキぶりを発揮して大方殿を困らせることばかりする。
これは、父母を失って傷ついている元就が、養母に対して愛情を求めている裏返しの行動だろう。
やがて、元就は15歳で元服するが、そこで演者が中村橋之助さんに交代する。
その橋之助さん演じる大人元就初登場シーンが、彼が大方殿の前で頭をさげ、
「元就、元服いたしました!」
と報告するシーンであった。
松坂さんをキャスティングしたこと、元服した元就の初登場が大方殿との会見シーンであったことなど、やはり制作陣にとって彼女は重要人物だった。
少年時代はやんちゃだった元就だが、元服すると、大方殿との関係は、仲の良いわきあいあいとしたものとして描かれる。
少年時代に孤児となった彼と、養母の彼女の関係が、きわめて愛にあふれたものであったと、少なくとも制作陣は考えていたはずだ。

【2】年表にみる毛利元就と家族
1497年、元就はこの世に生を受ける。
5歳年上の兄がおり、興元といった。
元就は幼くして不幸に見舞われ、5歳で実母が、10歳で父が死去する。
さらに11歳のとき、兄が京都へ行ってしまう。
これは、大内義興が畿内の政情混乱に乗じて上洛するため山口を出陣し、興元もそれに従軍したためであった。
幼くして父母を失い、兄まで遠くへ行ってしまった元就を不憫に思った大方殿は、彼を養育することにした。
約3年後、元就が15歳のとき、兄は京都から帰ってきたが、やがて4年後にその兄も死去してしまう。
19歳にして、元就は家族のほとんどを失ってしまった。
【年表】
1497年:元就生まれる
1501年:実母が死去 (5歳)
1506年:父・弘元が死去 (10歳)
1507年:兄・興元が京都へ行く (11歳)
→杉大方殿が元就と同居して養育する
1511年:兄、京都から帰る (15歳)
1515年:兄、死去 (19歳)
1545年:杉の大方殿が死去。この年に元就の正妻・妙玖も死去する (49歳)

【3】古文書にみる、その後の毛利元就
杉の大方殿について、元就は長男・隆元に宛てた手紙でその思いを打ち明けている。
『毛利家文書之二』420号に所収されている手紙だが、これは隆元が自分で筆写して、毛利家に伝わったものだ。
それは次のような内容である。

・自分は幼くして父母や兄と死別し、一人になった
・大方殿が再婚をあきらめて自分を育ててくれたことを、私はずっと気にしてきた
・しかし今の自分は家族に恵まれている(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景、娘しん(五龍局)、宍戸隆家(しんの夫))

毛利家の古文書は『毛利家文書』『吉川家文書』『小早川家文書』ほか多数が現在に伝わっているが、元就が家族に宛てた手紙は相当残っており、彼が家族への愛情や気配りをもった人物であったことは、よく知られている。
元就が家族に恵まれている現在をありがたく感じているという告白には、それもこれも大方殿が自分を育ててくれたおかげではないか、今の自分があるのは彼女のおかげだ、という感謝の気持ちがすけて見えるようだ。
家族を次々と失い、家臣にも領地を横領されるという過酷な戦国時代のなか、彼がむしろ愛情あふれる人物へと成長できたのは、大方殿の養育によるものだったことは、想像に難くない。
幼少期から思春期、幸運にも愛情に恵まれた元就であったが、彼と同じように家族の問題を抱え過酷な幼少期・思春期に直面したものの、元就のように愛情に恵まれなかった人物が、織田信長であった。
愛情に恵まれた元就は愛と気配りに満ちた人物へと成長できたが、それに恵まれなかった信長は、たとえば羽柴秀吉のように自分に尽くしてくれる人物には愛情をそそぐ一方で、自分に逆らう人間には容赦のない人物となった。
このことについては、次回のブログでまた述べたい。

【参考史料】
■毛利元就書状写(『毛利家文書之二』420号) 弘治四年(1558年)8月付
(前略)
一、我等ハ五歳にて母ニはなれ候、十歳にて父ニはなれ候、十一歳之時、興元京都へ被上候、誠無了簡ミなし子ニ罷成、大かた殿あまり不便之躰を御らん、すてられかたく候て、我等そたてられ候ためハかりニ、若御身にて候すれ共、御逗留候て、御そたて候、それ故ニ、終ニ両夫ニまみえられす、貞女を被遂候、然間、御かた殿ニ取つき申候て、京都之留守三ヶ年を送候、殊多治比を我々ニ弘元御ゆつり候へ共、井上中務丞渡候ハて、押領候、然共、興元も十六七之御事と申、第一在京都之儀候条、国本之儀ゑおほせつけられす候つる処、中務丞不思儀ニ死去仕候間、其後井上肥後守・伯耆守調法仕候て、多治比へよひ上、さ候て、興元之御事、元就十五之時御下候、其間興元たのミ申候へハ、力もつよく候つる処、又幾程なく、元就十九歳之時、興元早世候、如此以後ハ、勿論親にても、兄弟にても、或伯父にて候、甥にて候なとの一人ももたす、たゝ々々ひとり身にて候つれ共、今日まて如此かゝハり候事にて候、
一、是を存候時者、御方なとの御事ハ、誠ゑかいなしにてハ候へ共、我等如此候、又元春・隆景此分ニ候、宍事も一里半道之間ニかやうに被居候、日之内、時之間にもかけつけ候て、爰元へ来者にて候、
(以下略)

■現代語訳
①私は5歳で母と死別し、10歳で父とも死別した。
11歳のとき、兄・興元が京都へ行ってしまい、本当にどうしようもない孤児になった。
大方殿があまりに不憫だと思って、見捨てることができなくて私を育てたが、そうするためにまだお若かったのに毛利家にとどまって私を養育したのだ。
そのせいでついに二人目の夫と再婚するようなこともなく、未亡人として生涯を送った。
そのため大方殿を頼りに思って、兄が京都へ行って留守にしていた3年間を送った。
ところで、父・弘元は私に多治比の地を遺領として譲ったが、井上中務丞(※毛利家家臣)がこれを渡さず、横領してしまった。
しかし兄・興元はまだ16、7歳で、だいいち京都にいるので、国元に命令をすることができなかった。
そのうちに中務丞が不慮の死を遂げ、その後、井上肥後守・井上伯耆守が横領を適切に処理してくれたので、私は多治比に移って、大方殿もそこにお呼びした。
そして興元は元就が15歳のときに毛利家の領国に帰ってきた。
そのころは興元を頼りにして心強く思っていたが、ほどなく元就が19歳のとき、興元が早世してしまった。
このようなできごとがあって以後、親をはじめ兄弟も、伯父も甥すらも一人もおらず、ただ一人で生きてきたけれど、今日までこのようなこと(大方殿が元就を育ててくれたこと)を、ずっと気にしてきたのだ。

②このことを思い出しても、大方殿にいまさら恩返しもできないが、私は今はこのように家族に恵まれているのだ。
二男・三男である吉川元春、小早川隆景がいる。
宍戸隆家と、彼に嫁いだ娘しん(五龍局)は一里半(6km)ほどのところにいる。
彼らは一日もあれば、私のところへ駆けつけてくれる。
(以下略)

コメント

このブログの人気の投稿

映画感想文:「ぼくが生きてる、ふたつの世界」主演:吉沢亮

伊達綱村の古文書を読む

【除籍本を読む】 太平のカメ日記