【哲学的ドーナツ問題】「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」について考えてみた。
「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」はあるか?という哲学的な問いがある。
『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』というタイトルの本があり、私はまだ読んでいないのだが、今回はこのテーマで雑文を書いてみたい。
穴だけ残してドーナツを食べることは果たして可能だろうか?
穴は「物体を貫通する空洞」のことだから、ドーナツを食べてしまえば、周囲を覆っていた物体が消滅し、穴は穴として定義されず、存在しえない。
穴という空間が穴として定義されるには、周囲に物体が必要なのだ。
トンネルがトンネルとして、また居住空間が居住空間として定義されるには、それぞれ周囲に山や家という物体が存在して、初めてその空間がトンネルなり居住空間として定義される。
つまり、ドーナツが食べられて消滅すると同時に、穴も消滅することになる。
それでは、ドーナツを穴だけ残して食べることは不可能ということだろうか?
たぶん不可能な気がする。
ここまで考えて、私はふと疑問を持った。
空間が定義されるためには周囲に物体が必要だとすれば、宇宙空間の場合はどうだろう?
宇宙空間の向こう側は、何も存在しない「無」だと聞く。
しかし空間が定義されるためには周囲に物体が必要だとすると、宇宙空間の向こう側は「無」ではなく、何かあるのではないか?
ドーナツの穴の周囲にドーナツがあるように、宇宙空間の向こう側には、ドーナツのような「何か」がある、ということになりはしないか?
宇宙空間の向こう側には、果たして何があるのだろうか?
ここまで考えて、私はまた疑問を持った。
「空間を定義するためには周囲に物体が必要」という前提は、正しくないのではないか?
空間は、地球の中心点からの距離とか、ビッグバンが起こった宇宙の中心点からの距離などを基準にして、数字を用いた座標によって、定義可能である。
つまり、空間を定義するためには周囲に物体がある必要はない。
ということは、ドーナツの穴という空間を定義するために周囲にドーナツがある必要はなく、すなわち、「ドーナツを穴だけ残して食べる」ことは可能ということだろうか?
ドーナツの穴があった場所を、地球の中心点からの距離を用いた座標で表せば、かつて穴があった場所を空間として定義可能だ。
ドーナツを手に持って食べ終わる瞬間、その手の中には穴という空間があり、その座標を示すことは可能だから、ドーナツが消滅しても、穴という空間を座標で表現し定義できるのではないか?
穴だけ残してドーナツを食べられるではないか!
ここまで考えて、私はさらに疑問を持った。
ドーナツの穴という空間と、宇宙空間を同一のカテゴリーとして論じてよいのか?
何よりも、感覚的にはやっぱり「穴だけ残して食べる」というイメージがわきにくく、違和感しかなかったのである。
宇宙空間の「空間」と、ドーナツの穴という「空間」は、別物なのだ。
「穴」は言葉の定義として、「周囲に物体がある空間」のことなのだ。
宇宙空間の空間とはそれこそ世界の全てであり、その定義には何らの限定もないが、ドーナツの穴という空間はそうではない。
ドーナツの穴は空間は空間でも、定義をより限定しており、宇宙空間の空間の定義より、定義される幅が限定される。
宇宙空間の「空間」は定義の限定がないが、ドーナツの穴は「周囲に物体があって初めて定義可能」であり、したがって「ドーナツを穴だけ残して食べる」ことは、やはり不可能である。
話が一周して最初に戻ったが、やはりドーナツを食べてしまえば、穴も消えてしまうと、私は思う。
これはトンネルという空間、居住空間という空間にも同じことが言えて、トンネルや居住空間の「空間」は、その周囲に山や家がなければ定義されない、定義が限定された「空間」である。
山を吹っ飛ばせばトンネルも跡形もなく消えるし、家を取り壊せば、居住空間もなくなるのは、常識的あるいはイメージ的には自明の理である。
自明の理を改めて疑ってみるのが哲学エッセイなので、えんえんとくだらない考察をしてみた。
「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」はあるか?という問いに対しては、可能不可能の両論があるかもしれない。
意見の対立が起こるのは、「穴」という言葉の定義を等閑視するからである。
「穴」という言葉が定義として「物体を貫通する空洞」であるとあらかじめ確認しておかないと、意見が割れることになる。
「物体を貫通する空洞」という定義に立脚すれば「不可能」ということになるが、「穴」を定義を限定しない「全空間」として考えると、「空間は座標で示せるから、周囲にドーナツという物体は必要なく、つまり穴だけ残してドーナツを食べることは可能」という結論となる。
結論が異なるのは、「穴」の定義が異なっているからである。
この「ドーナツ問題」に限らず、さまざまな場面で人の意見が対立するのは、言葉の定義の違いが論点の違いとなり、議論がかみ合わなくなることが原因の一つであると思う。
他者と対話や議論をするなら、最初に論題となっている用語の定義を明確化してから議論を始めるとか、論点をあらかじめ明確に決めて、それから話し合うことで、無用な意見の対立を軽減できるのではないだろうか?という教訓を副産物として得ることができた。
追記。仮に「穴」を「物体を貫通する空洞」と定義したとしても、それでも「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」がある、と考える方がおられたら、コメントで教えてください。私は考えても思いつきませんでした。
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