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水星の魔女の元ネタ、少女革命ウテナ

 若者って、革命が好きだよな、と思う。 歌詞とかアニメとか、革命というワードがよく出てくる。と思う。そんな気がする。個人の感想だ。 しかしいたずらに馬齢のみ重ねけるおじさんたる私は、革命なんて夢見がちな若者の非現実論で、人の世に革新なんて起こらないと、もはや諦念している。 世界が100%清浄になることはなく、ベストにはなり得ない世界を少しでもベターに近づける地道な努力を積み重ねることしかできないのであって、革命とか革新とか安直な夢を見るなど最も危険な政治音痴の発想だ、と思う。 私が中学生だった30年くらいむかし、『少女革命ウテナ』というマンガがあった。アニメ化もされており、「輪舞-revolution」というOP主題歌がけっこう有名だと思う。 私は、「革命なんて暴力だろ?何が少女革命だ、くだらん」と、読むこともなく切って捨て、食わず嫌いで、そのまま30年の歳月が過ぎた。 思い返すに、ちょっとひねくれた少年だよ。 しかし革命が暴力で、政治改革の手段として妥当性がないことは、今でも自論として変わっていない。 革命とは民主主義のめんどくさい手続きをすっとばして非合法的に腐敗を除去することであり、目的が正しいのだから手段は問わなくてもいいと考える安直で安易な、間違った改革手法だ。 腐った既存の体制をぶっ壊すのは実に簡単で、しかし旧体制よりも良い体制を築き、そしてそれを維持・改善していくには、常に自己を批判的に検証し続ける不断の努力が不可欠だ。 しかし革命家とはそうした煩雑な作業を好まないからこそ、革命という手段に打って出るわけだ。 そうして革命政権は自身が革命によって打倒されることを怖れるあまり、民衆を弾圧し始める。 ただ壊すしか考えないのは良く言って若いからであり、はっきり申せば世間知らずの未熟者だ。 話を脱線させると、ヒンドゥー教のシヴァ神は創造と維持と再生をつかさどる神様であり、ただひっくり返せばいいなどと考えていない点で、インド人はえらいなと思ってしまう。 食わず嫌いの『少女革命ウテナ』だったけど、2025年になって、ふとなんとなくAmazon Prime videoで視聴してみた。 カッコいい女の子が、いじわるな男の先輩と剣で決闘して、花嫁の所有権を奪い取るという、学園百合アニメであった。 機動戦士ガンダム『水星の魔女』の元ネタやんけ!!!! もう革命論と...

【哲学的ドーナツ問題】「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」について考えてみた。

 「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」はあるか?という哲学的な問いがある。 『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』というタイトルの本があり、私はまだ読んでいないのだが、今回はこのテーマで雑文を書いてみたい。 穴だけ残してドーナツを食べることは果たして可能だろうか? 穴は「物体を貫通する空洞」のことだから、ドーナツを食べてしまえば、周囲を覆っていた物体が消滅し、穴は穴として定義されず、存在しえない。 穴という空間が穴として定義されるには、周囲に物体が必要なのだ。 トンネルがトンネルとして、また居住空間が居住空間として定義されるには、それぞれ周囲に山や家という物体が存在して、初めてその空間がトンネルなり居住空間として定義される。 つまり、ドーナツが食べられて消滅すると同時に、穴も消滅することになる。 それでは、ドーナツを穴だけ残して食べることは不可能ということだろうか? たぶん不可能な気がする。 ここまで考えて、私はふと疑問を持った。 空間が定義されるためには周囲に物体が必要だとすれば、宇宙空間の場合はどうだろう? 宇宙空間の向こう側は、何も存在しない「無」だと聞く。 しかし空間が定義されるためには周囲に物体が必要だとすると、宇宙空間の向こう側は「無」ではなく、何かあるのではないか? ドーナツの穴の周囲にドーナツがあるように、宇宙空間の向こう側には、ドーナツのような「何か」がある、ということになりはしないか? 宇宙空間の向こう側には、果たして何があるのだろうか? ここまで考えて、私はまた疑問を持った。 「空間を定義するためには周囲に物体が必要」という前提は、正しくないのではないか? 空間は、地球の中心点からの距離とか、ビッグバンが起こった宇宙の中心点からの距離などを基準にして、数字を用いた座標によって、定義可能である。 つまり、空間を定義するためには周囲に物体がある必要はない。 ということは、ドーナツの穴という空間を定義するために周囲にドーナツがある必要はなく、すなわち、「ドーナツを穴だけ残して食べる」ことは可能ということだろうか? ドーナツの穴があった場所を、地球の中心点からの距離を用いた座標で表せば、かつて穴があった場所を空間として定義可能だ。 ドーナツを手に持って食べ終わる瞬間、その手の中には穴という空間があり、その座標を示すことは可能だから、ドーナツが消滅...

多義語としての「童貞」

今回は多義語としての「童貞」について考察したい。 「やばい」という言葉は、良い場合にも、悪い場合にも使用される多義語である。 良くない、不都合という意味に加えて、近年は特に若者のあいだで肯定的な意味にも使用される。 「エモい」に近いニュアンスで、最高!とか、すごい!の意でも使用される、要するに心をふるわせる状況を表す。 話は変わって、僕はこれに近い多義語として、「童貞」という言葉を実に色々な場面で多用する。 なんでもかんでも「童貞だな!」と発言してしまうため、さすがに自分でも不自然さを覚える。 そこで、自分がどういう場面で、誰に対して「童貞」という語を使っているか、少し考えてみた。 ①頭の悪い人 知識はあっても使いこなせないなど、正解を導く思考力の乏しい人間にでくわすと、「こいつ童貞だな」と肚の中で僕はつぶやく。 「馬鹿」「未熟」という意味で使用していると思われる。 ②マナーの悪い人、法的・倫理的にアウトな人 法律やマナーを理解していない「未熟」な人に出くわした際に、「童貞かよ」と心中でそっとつぶやく。 ③ラーメン屋の「天下一品」で隣の人が「こってりの大盛り」を注文したとき 「こってりの大盛り」は僕的には「鉄板のメニュー」だと思っている。鉄板=飾り気がない、素朴、純朴というところから、思わず「童貞だな」と思ってしまう。 しかしもし友人と天下一品に行き、こってり大盛りを注文して、横の友人から「おまえ童貞だな」と言われたら、ぶん殴りたくなるだろう。 ④「黒さくの刺身」を見かけたとき スーパーで「黒さくの刺身」と書かれた刺身が売られていたとき、「童貞か」と思ってしまった。 「黒さく」は聞いたことがない言葉だったので、有名じゃない魚→素朴・純朴な存在ということで、「童貞」を連想したらしい。 ところで、「黒さく」の意味をAIに質問してみた。Twitter君の回答はたぶん間違ってると思う。 【Grok3】(X、旧Twitterに搭載されたAI) 「名探偵コナン」に登場する「黒ずくめの組織」(くろずくめのそしき)に関連するキャラクター、黒澤陣(くろさわ じん、コードネーム:ジン)のことを指している可能性があります。 【Google】 「黒さく」とは、主に魚の身を刺身にする前に、食べやすく切り分けた状態を指します。「さく」は、魚の繊維に沿って、薄く長方形に切り分けたものを指します。...

ReoNaさんライブ感想「ReoNa ONE-MAN Live Tour 2025 “SQUAD JAM”」2025年3月30日 KT Zepp Yokohama

 ReoNaさんのライブに参戦してきたので、感想を書きます。 2025年3月30日、横浜までライブに行ってきた。 小さい方なんだよね、たぶん140cm台かと思う。小さい人が壇上でギターをかき鳴らして、勢いよく歌ってるエネルギッシュな姿だ……ライブでの第一印象はそんな感じだった。 だが次第に、歌うその身体から、悲しいオーラが上に向かってゆらゆらと立ち昇っているように見えた。 やがてそれが、あたかも身体全体が涙を流して泣いているみたいに見え始めた。 次の曲、次の曲と展開していく中で、歌い方やパフォーマンス、イルミネーション効果などもあり、その姿とイメージが次々に移り変わっていく。 『革命』を歌うくだりでは、もはや爆発しているように見えた。 どうしようもない内面の色々な矛盾する感情を、爆発させて歌っているように見えた。ああ、この人は「絶望」なんだ、と思った。自称他称「絶望系アニソンシンガー」のReoNaさんだが、つまりあの人は「絶望」そのものなんだ。と思った。「絶望の小さなブラックホール」が声を限りに歌っているように感じた。そう見えた。 と思ったら、今度は風のような黄金色の翼をまとって、小さく、エネルギッシュに輝いて見え始めた。おかしな表現かもしれないが、今度はそれが「希望のブラックホール」に見えた。たぶん『YOU』(アルバム『ELZA2』収録曲)を歌ってたときに、そう見えた気がする。 「小さな絶望」が、歌いながらギターを弾きながら壇上で跳ねる。 あの人は「絶望」を出発点にして、もしかしたら今も絶望し続けていて、しかしこれからもそれを糧に歌って行ってくれるのだろう。 負の感情がエネルギーにならないって、誰が決めた?……まるでそう言ってるように感じた。 悲しみを歌う曲が誰かに寄り添うことができるのは、そうした曲は「共感」を生むからだ。 人生で一番つらいのは孤独で、しかし自分と同じように苦しみまた悩んでいる人がいるんだという「共感」は、孤独を少しだけ癒してくれる。 無責任に背中を押し尻をけっとばすような力強い応援ソングにはない、そんな「小さな希望」がある。 ReoNaさんだけじゃなくて、そもそも今回はライブというものに初めて参加した。 身体全体で泣いているように見えたり、歌う姿が「なんちゃらブラックホール」に見えたりと、実際には見えていないイメージがあたかも「見えてい...

天皇誕生日に「おまんこ」の語源を考察する/朕の珍珍は早漏にて候

令和7年2月23日、今日は天皇誕生日である。 ところで、「朕の珍珍は早漏にて候」というふざけた言葉があるが、これは不敬罪と言わざるを得ない。 なぜなら、朕(ちん)すなわち天皇はもっともえらい存在だから、丁寧語の「候」=「~です、~ます」などという言葉は使わんからである。 天皇のお言葉については置くとして、ここは話題を変えて、女性器「おまんこ」の語源については諸説があるので、適当に考察を試みてみたい。 私が高校生のころ耳にした説は、おまんこ=「汚門戸」が語源になったというものだった。 しかし「お」はお金、お箸など丁寧を表す接頭語「御」と見るべきだと思う。 「汚い門」という字を当てる説は、女性が差別されてきた歴史をあまりに強く意識し過ぎている。 私の説は結論からいって、万宝(まんぽう)つまり「御万宝」に由来するというものだ。 万宝は「多くの宝」という意味で、子供=子宝を産み出す女性器は、御万宝というにふさわしい。 「万宝」に由来すると考えたのは、男性器「ちんこ」=「ちんぽ」の語源が「珍宝」である、という説があるからだ。 「まんこ」の「こ」と「ちんこ」の「こ」が同じ語源の接尾語「子」だとすれば、男性器の「珍」に対応する女性器の「まん」とは、何だろう? そこで私は、「珍宝」に対応するのは「万宝」であろう、と推測したのである。 ちんぽは珍しい宝、まんこはたくさんの宝、というわけだ。 ちなみに、Wikipediaの「おまんこ」という項目には語源について諸説があげられているが、私の「御万宝」説はのせられていない。 Wikiには、正室を意味する「北政所」に由来するという説があげられているが、豊臣秀吉の正室ねねは「まんかかさま」とも呼ばれた。 秀吉は子・秀頼に宛てた手紙で、秀頼を産んだ母=淀の方に対して、「政所の母様」という意味で、ねねを「まんかかさま」と書いている。 では、Wikipediaを以下に引用させていただく。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%93 ・体の中心を意味する眞處(まこ)の音便[19]。 ・女子(めのこ)の転訛であるという説[20]。「めこ」もめのこの転訛とする文献もある[21]。 ・徳川家康の側室・お万の方(養珠院)の女性器が素晴らしかったという話から[22]。 ・古代の和語で性器を意...

テロリズムを肯定する犬養毅

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  昭和七年(1932)三月二十一日、坂下門外の変七十周年に際して計画された慰霊祭の案内状。 「阪下義挙殉難烈士慰霊祭典発起人」が主催したとあるが、総理大臣・犬養毅や、文部大臣・鳩山一郎の名前も見える。 (犬養はこの年の五月十五日、五・一五事件で暗殺される) 坂下門外の変は、文久二年(1862)正月十五日、老中・安藤信正が江戸城坂下門外で襲撃された事件。 政治家や学者が、この事件を「義挙」と認識していたことが分かり、興味深い。 ちなみに、五・一五事件の後、実行犯たちを死刑にしないよう全国的に減刑運動が起き、抗議のために自殺した女学生もいたという(小山俊樹『五・一五事件』中公新書)。 戦前の日本は、総理大臣から国民まで、民主主義を軽視していたと言える。 悪政や悪徳政治家を駆逐するという目的が正しくても、手段を誤っては民主主義は成り立たないのである。 民主主義を軽視することはかえって悪政を生み、それが日本では最悪の道筋をたどったのかも知れない。

元旦!三条西実隆と文豪ストレイドッグスにみる自分を救済する方法

新年、元旦早々に不幸を感じた。 朝から、指の感覚がマヒしている。 そのせいで年越しそばのゆで方を失敗し、美味しくないそばを食べながら、色々な感慨にひたった。 去年は実家とのゴタゴタが勃発し、ストレスによる自律神経の乱れから、手足の指が半分くらいマヒしているのだ。 人間は仕事にせよ、生活にせよ、指を使いながら頭も使っている。 指がマヒすると、単に不便なだけでなく、自由な発想や思考ができなくなる。 これはおそらく、体験しないと一生知ることはない事実だろう。 やると決まったことを機械的にやる仕事と違って、古本屋さんの店主は「何をやるべきか、やらざるべきか」をすべて自分で考えて行動しなくてはならない。 だから自由な発想力、思考力が低下するのは、相当に不幸な話だ。 親のせいで仕事から生活まで足を引っ張られるのだから、不幸の極みだ。 ちなみに指のマヒはキーボードを打つタイピング作業にも支障をきたし、字も間違えまくってしまう。 話は少し変わるが、私が入学した大学の歴史学科では、戦国時代の公家・三条西実隆の日記『実隆公記』を読む会が、毎月開催されていた。 戦国時代に限らず、朝廷・公家社会では正月はもちろん、毎月一日に天皇のもとに集まって、おめでとうございますのご挨拶をする。 戦国時代は天皇も公家も経済的に困窮し、儀式や飲み会すらも自由に開催できなかった。 戦乱により地方の荘園が武士に横領され、収入源の年貢が減少したためである。 それでも、仮に貧乏でも、実隆たちは月イチで天皇に感謝し、自分の日記にも、めでたいと記す。 漫画『文豪ストレイドッグス』に、次のようなセリフがある。 「人は自分を救済するために生きている」 「自分を哀れむな。自分を哀れめば、人生は終わりなき悪夢だよ」 たとえ不幸のどん底にあっても、自分が不幸だとか、自分が可哀そうだとか思えば、ますます不幸になって、抜け出せない。 実隆たち公家のように、たとえ不幸だろうが、めでたい!と口に出して言うことが、すなわち自分を救済していくことに繋がるのではないか。 「自分を哀れむな」とは、児童養護施設で虐待を受け心に傷をもつ主人公・中島敦くんが絶望した際に、兄貴分の太宰治が敦くんに言ったセリフである。 地獄を経験してきて、おそらく一生それを背負っていくことになる敦くんだが、それでも、いやそれだからこそ、自分を哀れだと思ってはいけないの...