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トーハク『はにわ展』に行ってきた!

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  トーハク(東京国立博物館)の『特別展 はにわ』に行ってきた! 念のためにザックリ説明すると、「埴輪(はにわ)」は1500年くらい前の古墳時代、王様や有力者のお墓である古墳のまわりに並べられていた物体で、人物もあれば、家とか船とか、一見するとよく分らん筒状の物体とかである。 大きさは数十センチくらいから、数メートルまで、色々ある。 古墳を造ってまわりに「はにわ」を並べるというのは、まだ仏教が伝来してくる以前の、埋葬の仕方だった(ただし金持ちに限る)。 写真にあるように、はにわって優しい顔をしている。 博物館の展示室に入ると、ハワイアンみたいなポーズで踊るはにわ、2体にお出迎えされ、心がホッコリする。 このブログの写真の、左側に映っているやつだ。 初手にこれを持ってきたトーハクの学芸員さんの、あきらかな意図を感じた。 はにわって、みんな優しい顔をしている。 ニッコリ笑っているはにわはもちろん、剣やヨロイで武装した武人のはにわも、無表情な顔なのに、どこか優しい印象を受ける。 鉄製のヨロイが展示されていて、おじいさんが「こんな昔から戦争をやってたんだよ」と、人間の歴史の業を小ばかにしたように笑っていた。 まあ、その通りだろうな、と私も思って、展示品のはにわたちを見る。 その顔は、みんな、優しい。 戦争をしていた時代の、武人のはにわでさえ、なぜその顔は優しいのか? 直感的に、「守る存在だから」ではないか?と思った。 現代では戦争や武器は「傷つける存在」で、はにわの時代もそれは同じだろう。 だが、当時の人たちが、武装した男を「自分たちを守ってくれる存在」と認識していたから、彼らの表情は優しく表現されているのではないか。 当時、戦争はもっと生活に身近で、日常と戦争は現代よりもっと密接不可分で、戦争をする武人が「守る存在」と人々から思われていたのではないか? 武人は、古墳に埋葬された王様だけでなく、武人の家族やみんなを「守ってくれる存在」だから、その顔は優しいのではないか? そんなことを考えながら、はにわを次々と見ていく。 次の新しい展示室に入ったら、武人のはにわ、5体がドドン!とお出迎え(その一部は国宝や重要文化財に指定されている)。 やはり無表情だが、ゆったりと落ち着いた雰囲気の、優しい顔だ。 これは憶測だが、入口から順番に、年齢が若い順に、5体が並べられているように感じた

「甲州地震」安政東海地震(南海トラフ巨大地震)の史料

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  24.2 × 24.7cm 「甲州地震」と題する史料で、甲州 ( 山梨県 ) の地震被害を報告している。 差出人と受取人の名前がないため、瓦版のように配布されたビラ的な史料なのかもしれない。 紙質から江戸時代ごろの史料と思われるが、いつの地震を記したものか、推測してみたい。 地震が発生した日と時間について、「当月四日辰中刻」と記されている。 江戸時代の甲州で、「四日の辰の中刻 (8 時 20 分 ) 」ごろに起こった地震としては、嘉永 7 年 ( 安政元年、 1854 年 )11 月 4 日 ( 新暦では 1854 年 12 月 23 日 ) の「安政東海地震」が考えられる。 これは「南海トラフ巨大地震」のひとつとされ、津波や家屋の倒壊・火災によって、数千人が死亡したと推測されている。 地震の規模はマグニチュード 8 クラスと推測されている。 また、この地震の翌日には、南海地方 ( 四国地方 ) で同規模の「安政南海地震」が発生した。 この史料は甲州の地震を伝えたものであるため、津波の被害については言及がないが、甲州では特に家屋の倒壊被害が大きかったことが記されている。 この時の「南海トラフ巨大地震」からすでに約 170 年が経過しており、現代の日本では次の「南海トラフ巨大地震」への対策が叫ばれている。   【翻刻】    甲州地震 一、当月四日辰中刻、大地震ニ付、八日町通 壱丁目、表通、左表筋之弐丁目中程迄、 魚町三丁目中程、同町弐丁目西かわ、 大半壊、山田町壱丁目少し、柳町壱丁目 中程大半壊、同町弐、三、四丁目共壊家 少し、連尺町壱丁目中程、大半壊れ、 片保町ゟ西之方、無記、金子町ゟ東方 無記、八日町ゟ南連尺町迄、大地震□、 魚町五丁目、桶屋町抔も余程壊し 相成、此段御しらせ申候、

【哲学】自然はなぜ美しいのか?

 自然はなぜ美しいのだろうか。 言いかえれば、人はなぜ自然を美しいと感じるのだろうか。 自然は弱肉強食の世界だ。 ライオンはシマウマを食い殺す。 魚はエサをパクッと食べる。 鳥が虫をパクパク食べてしまう。 カブトムシが角でクワガタを吹っ飛ばし、自分だけ樹液をチューチュー吸ってしまう。 しかし、そんな自然を、人は美しいと感じる。 弱肉強食であっても、自然の営みを、人はむしろすばらしいとさえ思う。 ライオンがシマウマを殺すシーンを見ても、怖くて残酷だと感じることはあっても、ライオンが醜いとか悪いことをしているとは考えない。 クワガタを吹っ飛ばすカブトムシを、悪人だと非難する人はおそらくいないだろう。 自然が美しいと感じられる理由、それは自然は善悪が存在しない世界だからだ。 逆に言えば、人の世が醜い、人は醜いと感じるのは、そこに善悪の観念があるからだ。 善があるから、善の立場から見た好ましくない状態として、悪という存在が生まれた。 善があるから悪が生まれ、人には悪であり醜いところがあるじゃないかという考えが生まれたのだから、人の世は皮肉なものだ。 しかし、醜い人の世にも、メリットはある。 世の中が醜いから、それが悪であり間違っているからこそ、人は世の中をもっと正しいものに変えようと思う。 実際、まだまだ世の中はいろいろと悪いところはある。 しかし大昔は合法だった王様や貴族が一般人を殺すとか、人が人を奴隷として売り飛ばすとか、そういう行為は間違っているのだと人々は考えて、今では法的には禁止され、大昔よりは少しずつ世の中は良くなってきた。 醜いから、それを改善しようという気持ちが起こる。 人の世には、醜いからこその、メリットがある。 善悪により、人が幸せになることを目指す、それが人の世の幸福実現システムだ。 しかしそれは、人が人の世を、人を、醜いと感じてしまうという、悲しいデメリットを生んでしまった。 一方で自然は、人とは別のシステムで幸福実現を目指している。 それは、進化である。 進化することで、きびしい環境に適応する強さを身につける。 自然のきびしさに対抗できるその強さが、個人の幸福を実現していく。 ライオンはキバやアゴを強く進化させ、シマウマを食い殺せる強さ、生き残れる強さを手に入れた。 カブトムシは強い角やパワーを手に入れ、クワガタを吹っ飛ばし、樹液を独り占めできるの

激おこおやじの古文書を読む

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上田三郎書簡 上田信次郎宛 【状態】 18.2 × 131.5 cm   上田三郎から、上田信次郎に宛てた手紙である。 三郎は父、信次郎は息子と思われる。 父子の素性は、明らかではない。 この手紙によると、父が息子に「帰国してほしい」と言ったところ、息子は「一文無しで、帰国するお金がない」と答えたらしい。 「帰国」といっても、息子は外国にいるわけではなく、東京にいることが、手紙を読んでいくと分かる。 「帰国」とは、故郷である「国」に帰ることを意味しているようである。 息子は、東京で「一日三十五銭」の給料で 3 ~ 4 ヶ月働いていたが、所持金がまったくなかったという。 国立国会図書館デジタルコレクションで「一日三十五銭」と検索すると、だいたい大正時代 (1912 ~ 26) ごろの日給が、それくらいだったようである。 一文無しであるという息子の手紙を読んで、父は激怒し、母は泣いて暮らしているという。 手紙のやりとりをしている息子は二男で、長男は豊蔵といったらしい。 「二人とも人々ニ笑はるゝが如き行為を致しつゝあれば」とあるため、どうやら長男も「ダメ息子」だったことがうかがえる。 実家は農家だったようで、息子が帰国しなければ、耕作地を減らしたり、小作人に耕したりさせなければならないという。 父は、それなりの広さの土地を所有する、地主的な存在だったのかもしれない。 父の怒りのボルテージは、二伸 ( 追伸 ) でさらに勢いを増している。 とにかく、現代語訳だけでも読んでいただきたいものである。   【翻刻】  上田信次郎君   取り急き一寸申上候、 陳れば、貴君此度帰国せら れ度しと申送り候処、目下 旅金一文無しニて、帰る能はずと 為し候が、三、四ヶ月も働きて 一文なしとは、如何なる事 に候や、人様ニ借りられたる ニ候か、亦貴君が費し候や、 憚らず御知せ被下度候、次ニ 貴君は相続人ニ有之申さず候 ニ付、始終父母の膝下ニ居る 訳ニはゆかず、外へ出ずべき人ニ 御座候間、無理ニ御帰り被遊 せと云ふニはあらず候、其れとも 若し東京ニて身を保つ見込 なく帰国致し度御思召され候 はゞ、栄吉殿ニ依頼致し 置き候ニ付、帰国致す丈の旅

①愛着障害と毛利元就と織田信長:幼少期・思春期における家族関係と愛情 病跡学

①愛着障害と毛利元就と織田信長:幼少期・思春期における家族関係と愛情 【1】大河ドラマにみる毛利元就の生い立ち 戦国時代、毛利元就は幼くして父母や兄を相次いで失って、孤児のような身の上となった。 そんな彼を育てた「杉の大方殿」という女性がいた。 大河ドラマ「毛利元就」では、松坂慶子さんが演じていた。 松坂さんは大物、大御所の大女優であるから、ドラマ制作陣が大方殿を最重要人物と認識していたことは、疑いない。 幼少期の元就は、森田剛さんが演じていた。 森田さん演じる元就は、クソガキぶりを発揮して大方殿を困らせることばかりする。 これは、父母を失って傷ついている元就が、養母に対して愛情を求めている裏返しの行動だろう。 やがて、元就は15歳で元服するが、そこで演者が中村橋之助さんに交代する。 その橋之助さん演じる大人元就初登場シーンが、彼が大方殿の前で頭をさげ、 「元就、元服いたしました!」 と報告するシーンであった。 松坂さんをキャスティングしたこと、元服した元就の初登場が大方殿との会見シーンであったことなど、やはり制作陣にとって彼女は重要人物だった。 少年時代はやんちゃだった元就だが、元服すると、大方殿との関係は、仲の良いわきあいあいとしたものとして描かれる。 少年時代に孤児となった彼と、養母の彼女の関係が、きわめて愛にあふれたものであったと、少なくとも制作陣は考えていたはずだ。 【2】年表にみる毛利元就と家族 1497年、元就はこの世に生を受ける。 5歳年上の兄がおり、興元といった。 元就は幼くして不幸に見舞われ、5歳で実母が、10歳で父が死去する。 さらに11歳のとき、兄が京都へ行ってしまう。 これは、大内義興が畿内の政情混乱に乗じて上洛するため山口を出陣し、興元もそれに従軍したためであった。 幼くして父母を失い、兄まで遠くへ行ってしまった元就を不憫に思った大方殿は、彼を養育することにした。 約3年後、元就が15歳のとき、兄は京都から帰ってきたが、やがて4年後にその兄も死去してしまう。 19歳にして、元就は家族のほとんどを失ってしまった。 【年表】 1497年:元就生まれる 1501年:実母が死去 (5歳) 1506年:父・弘元が死去 (10歳) 1507年:兄・興元が京都へ行く (11歳) →杉大方殿が元就と同居して養育する 1511年:兄、京都から帰る (15歳

伊達綱村の古文書を読む

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松平陸奥守 ( 伊達綱村 ) 書状 藤井宛 【状態】シミ、 34.5 × 51cm   【翻刻】 一筆申上候、まつ〳〵 御きけんよく御さ なされ候や、うけたま ハりたくそんし上候、 こゝもとさむさつよく、 一昨夜ゆきふり、一尺 はかりつもり申候、 わたくし無事に つとめ、今日は 覚範寺殿御位 はひおかみたてまつり、 御太刀・御馬代さし 上申候、首尾よく はからひまいらせ候、 序なから申上候、 織部は度々そこ ( 以下下段 ) もとへまいり勤候や、 主馬大人しく、作法存 のほかよく、ことに主馬ハ 少つゝ用たしつか ハれ申候、妹とも そくさいのよし うけたまハり候、 大慶の事に 御さ候、めてたく かしく、    まつたいら 十日  むつのかみ  藤井へ   【読み下し】 一筆申し上げ候、まずまずご機嫌よく御座なされ候や、承りたく存じ上げ候、ここもと寒さ強く、一昨夜、雪降り、一尺ばかり積り申し候、私無事に勤め、今日は覚範寺殿御位牌、拝み奉り、御太刀・馬代差し上げ申し候、首尾よくはからいまいらせ候、ついでながら申し上げ候、織部はたびたびそこもとへ参り勤め候や、主馬おとなしく、作法存知のほか良く、ことに主馬は少しずつ用足し使われ申し候、妹ども息災の由、承り候、大慶の事に御座候、めでたくかしく、   【現代語訳】 一筆お手紙を申し上げます。まずはご機嫌いかがでしょうか。承りたく存じます。こちらは寒さが強く、一昨夜は雪が降って、一尺 ( 約 30cm) ほど積もりました。私は無事に法事を勤め、今日は覚範寺殿 ( 伊達輝宗 ) のご位牌を拝ませていただき、御太刀・馬代を覚範寺に差し上げました。首尾よくとりはからうことができました。ついでながら申し上げます。織部はたびたびそちら行へって勤めているでしょうか。主馬は大人びており、作法は思いのほか良く、特に主馬は少しずつ用足しに使われています。妹も息災であると、承りました。めでたいことです。めでたくかしく。   【解説】 松平陸奥守から、藤井という人物に宛てた書状である。 内容は、①雪が 30cm 積もったこと、②覚範寺殿 ( 伊達輝宗 ) の法事をおこなって位牌を拝み、覚

私の不登校と島本理生さん『匿名者のためのスピカ』

8月、高校の恩師に会うために、郷里を訪れた。 1年ほど前、約20年ぶり(?)にお会いしたのだが、そのときは「古本屋、始めました」と告げただけで、ほかに何を話したかもよく覚えていない。 それでも高校時代は相当に先生を悩ませた問題児であったから、その私がとにかくも正職についたこと、それも古本屋とかいう得体の知れぬ職業のこととて、驚いておられた気がする。 今年は、6月くらいに「是非ともお会いしたい、先生もご高齢のことゆえ」と、怪しげなメールを送り、面会の約束をした。 いざ8月下旬にお会いしたが、1年前とは打って変わって、私はマシンガンのようにしゃべり続けた。 要するに、私は躁状態だった。 それも先生とお会いするうれしさから一時的に元気がわいたとかではなく、はっきり申せば病的な精神の高揚であった。 私の躁状態は5月から続いていたが、3か月も燃え続けたせいであろう、そのころはいくぶんか高ぶりも下火になっていた。 だから私は、どうしても伝えたかったことを優先的に話題に選び、話し始めることとした。 それは、正しさが必ずしも人を救わない、ということであった。 …ある小説を、半分ほど読んだ。 そのとき私は躁状態で極めて頭脳が冴えていたから、最後まで読むことなしに、その後のストーリー展開や作者の主張を手に取るように思い描くことができた(あるいはそのように妄想した)。 小説の基本設定は、こうである。 主人公は、法科大学院に通う弁護士志望の男子学生である。 彼の相棒役として、同じ大学院の検察官志望の男子学生が登場する。 やはり同じ大学院に通うヒロインが登場し、彼女と主人公はあっさりと付き合いはじめる。 さらにヒロインには元カレがおり、彼はヒロインが高校生のころ、彼女を監禁した前科をもつ。 主人公は記憶力はすばらしいが、人の心の裏を読むことが大の苦手で、国語の問題で登場人物の気持ちを答えさせるような問題がまったく分からないような人物である。 弁護士を目指す彼は法律の条文などもすらすら暗記しており、いわば正義を象徴するようなキャラクターだ。 一方で相棒は、母親から冷たくされたことで苦しみ、かつては女の子をとっかえひっかえしては傷つけるという荒れた十代を送った過去をもつ。 そのとき、彼の悪行を見かねた叔父が彼を殴り倒したが、彼は涙を流して謝ったという。 ヒロインの境遇は相棒に似ており、彼女も母親