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古物市場日記 その4 北条時頼記図絵と古文書で殴り合う

  前回の市場では、強い業者を相手にもっと殴り合う ( 競り合う ) 必要がある、と反省した。 そこで、今回の市場では多少の「殴り合い」を試みた。 『北条時頼記図絵』という和本が出品された。 北条時頼は鎌倉幕府 5 代執権で、元寇のころの執権・北条時宗の父親である。 「図絵」というタイトルどおり、文章に絵も入っている。 これは面白そうだ、欲しい、と思った。 そこで他の業者様と殴り合い、私は 6000 円まで声をあげたものの競り負けて、結局●万円で落札された。 惜しいと思ったし、もっと声をあげれば良かったかとも思ったが、あとで「日本の古本屋」で調べてみると、同じ作品が 16500 円で売られていた。 つまり相場からすれば、●万円では赤字になってしまう。 結果論だが、ここは競り負けて良かったのである。 さて、今度は古文書が 1 点、出品された。 シミに喰われて紙がくっついており、全部は読めない。 古文書の差出者と宛先の人物名は、普通は文書の奥 ( 左端 ) に書かれる。 折りたたまれたその古文書は、紙がくっついているせいで奥まで読めない。 誰が誰に出したものか分からないが、その冒頭には「水戸様」がどうたらこうたら、と書かれていた。 水戸様は水戸黄門で有名な、御三家の水戸徳川家のことである。 もしかしたら重要史料かもしれないと思い、どうしても欲しいと思い、これまた他の業者様と殴り合って、それなりの値段で競り落とした。 帰宅してから、シミでくっついた紙をペリペリと剥がしながら読んでいくと、「杉本茂兵衛」が「小沢権兵衛」に宛てた書状である。 調べてみると、杉本茂兵衛は大坂屋茂兵衛といって、江戸の飛脚問屋として活躍した人物であることが分かった。 内容を読んでいくと、「水戸様」が商人に借金を要求したことが書かれており、どうやら彼ら商人はそれをすごく嫌がっているようであった。 面白いと言えば面白い史料であるが、いわゆる有名人の古文書ではなかったため、少しだけガッカリした。 あとは、面白そうだと思った和本を何点か落札した。 ただ、これも「日本の古本屋」で調べてみるとけっこう安価なもので、自分が面白いと思ったものが、必ずしも相場が高いとは限らないのである。 しかし安いからと言って価値が無...

細川成之奉行人飯尾之連奉書(『戦国遺文 三好氏編』参考4号)

  【参考4】細川成之奉行人飯尾之連奉書 ( 『猪熊文書』 )    猶々此分片穂兵庫方へも申候、定可被申談候哉、近    日□□□□□□京都時宜可申候、 阿州上郡寺社領、今度大嘗会段銭未進事、公私御用多候、堅致催促、不日可進上仕之由、被成御奉書、近日可人下候、仍三好方より逸見兵庫方へ副状進之候、定可被申談候哉、若無沙汰、於在所者、致註進、可被仰付之由候、恐々謹言、    二月廿九日      之連 ( 花押 )    逸見豊後入殿         進之候               飯尾次郎左衛門尉                     之連  逸見豊後入道       進之候   【読み下し】 なおなおこの分、片穂兵庫方へも申し候、定めて申し談ぜらるべく候や、近日□□□□□□京都時宜申すべく候、 阿州上郡寺社領、今度大嘗会段銭未進の事、公私御用多に候、堅く催促致し、不日進上つかまつるべきの由、御奉書を成され、近日人下すべく候、よって三好方より逸見兵庫方へ副状これをまいらせ候、定めて申し談ぜらるべく候や、もし無沙汰、在所においては、註進致し、仰せ付けらるべきの由に候、恐々謹言、   【現代語訳】 阿波国上郡 ( 美馬郡・三好郡 ) の寺社領は、今度の大嘗会の費用である段銭を未進していますが、朝廷は公私ともに出費が多いのです。 厳重に催促し、すぐに進上するべきであるということを、 ( 阿波守護・細川氏が ) 御奉書を作成されたので、近日中に使者を派遣します。 よって ( 郡代の ) 三好之長からも逸見兵庫へ副状を送ります。 きっと ( 一族で ) 相談してくださるでしょうか。 もし無沙汰 ( 未進 ) の在所があれば、注進してもらって、 ( 阿波守護・細川氏から ) ご命令が下されるということです。恐々謹言。 追伸。このことは、片穂兵庫へも伝えました。きっと相談してくださるでしょうか。近日 ( 以下、欠字 ) 、京都時宜 ( 将軍・足利義澄のお考え ) をお伝えします。   【解説】 阿州の上郡 ( かみごおり ) とは、阿波国の三好郡と美馬郡を指す。 京都の寺社が上郡に所有している領地に、大嘗会のための段銭 ( 田んぼにか...

細川成之奉行人飯尾之連奉書(『戦国遺文 三好氏編』参考3号)

  【参考3】細川成之奉行人飯尾之連奉書 ( 『阿佐文書』 ) 就国忩劇之儀、被仰付三好筑前守子細在之、随彼下知可被致忠節、若令難渋者、就註進主名、一段可有御成敗之由候也、仍執達如件、   永正五年     二月廿三日    之連 ( 花押 )    祖山     阿佐殿 【読み下し】 国忩劇の儀につき、三好筑前守に仰せ付けらるる子細これあり、彼の下知に随い忠節致さるべし、もし難渋せしむれば、主名を註進につき、一段御成敗あるべきの由に候也、よって執達くだんの如し、   【現代語訳】 阿波国の争乱については、三好筑前守之長に子細を命令してあります。 彼の命令に従って忠節にはげんでください。 もし命令に従わなければ、主だった者たちの名前を報告して、特に御成敗をなされるということです。 よって通達することは以上の通りです。   【解説】 宛所は「祖山 阿佐殿」となっている。 「祖山」は阿波国三好郡・美馬郡の「祖谷山 ( いややま ) 」のことである。 祖谷山の武士団「伊屋 ( いや ) 衆中」に宛てた文書が残っているが ( 細川澄元書状、『戦国遺文 三好氏編』 22 号 ) 、「阿佐殿」も祖谷山の武士団の一人であろう。 「争乱については、三好筑前守之長に子細を命令してあります」とある。 之長は阿波三好郡の治安維持を担う郡代であり、宛所の「祖山 阿佐殿」も阿波の地名と人名であるから、文書冒頭の「国忩劇」とは、阿波の混乱・争乱を指していると思われる。 命令の流れとしては、 阿波守護・細川成之 ↓ 細川成之の奉行人・飯尾之連 ↓ 三好之長&阿佐殿 という流れになる。 「もし命令に従わなければ、主だった者たちの名前を報告せよ」とあるが、祖谷山の武士団「伊屋衆中」の中にも、三好之長の指揮だけでは従わない可能性のある連中がいたことが分かる。 之長の命令に従わない者を想定して、守護・細川氏からの命令を伝える奉行人奉書が出されたようで、それが今回とりあげた史料である。 古書・面白半分HP

細川澄元書状(『戦国遺文 三好氏編』11号)

  【原文】細川澄元書状 ( 「岡本文書」 ) 去六月廿四日合戦、東条摂津守打死候、忠節無比類候、然間息鶴法師召上、一段可褒美候へ共、幼少事候間、先不能其儀候、国中所々知行分事、無相違被仰付、別而被懸御目給申沙汰可悦入候、此由能々可有披露候、尚三好筑前守可申候、謹言、 ( 永正四年 )    十一月五日     澄元 ( 花押 )   岡本九郎左衛門尉とのへ   【読み下し】 去る六月二十四日の合戦、東条摂津守打ち死に候、忠節比類なく候、然る間、息鶴法師召し上げ、一段褒美すべく候えども、幼少の事に候間、まずその儀にあたわず候、国中所々知行分の事、相違なく仰せ付けられ、別して御目に懸けられ、申沙汰を給わり、悦び入るべく候、この由よくよく披露あるべく候、なお三好筑前守申すべく候、謹言、   【現代語訳】 去る六月二十四日の合戦で、東条摂津守が討ち死にしました。忠節は比類ないものです。それなので、息子・鶴法師を呼び寄せて、特に褒美を与えるべきですが、彼は幼少なので、まずはその必要はないでしょう。 ( 将軍足利義澄が ) 播磨国中の所々の知行分の支配を、相違なく認めてくださって、特にお目にかけてくださって、取り計らっていただき、悦ばしいことです。このことをよくよくあなたの主人 ( 鶴法師か ) に披露してください。なお三好筑前守 ( 之長 ) から申し伝えます。謹言。   【コメント】 細川京兆家の細川澄元 (1489 ~ 1520) から、岡本九郎左衛門尉へ宛てた書状である。 永正 4 年 (1507)6 月 23 日の「永正の錯乱」に関係する史料と思われる。 この日、管領・細川政元が暗殺され、以後、彼の三人の養子である澄元・澄之・高国による争いが始まる。 この史料は、その翌日に起こった合戦で、東条摂津守が討ち死にしたことを伝えている。 『兵庫県史』は、彼を播磨国加東郡東条谷の東条氏であると推測している。 この史料は播磨赤穂地区 ( 赤穂郡 ) に伝わる「岡本文書」に所収されており、加東郡と赤穂郡は隣接しているわけではないが、どちらも播磨国であるため、『兵庫県史』の解釈に従いたい。 東条摂津守は、澄元に従って戦い、討ち死にしたようである。 遺児・鶴法師は幼...

市原国春書状案 3点(『戦国遺文 三好氏編』8~10号)

  【8】市原国春書状案 ( 『九条家文書』 ) 九条殿御寺嵯峨往生院領田地山林等幷当坊主私領之事、其方御違乱之由候、太不可然候、従 御家門筑州江被仰旨候、就其無相違可有知行之由被申候、殊当坊主私別而申合儀候、御違乱可被停止之由、自私堅可申由候也、恐々謹言、 ( 永正四年 )       市原出雲守   九月七日         国春判 【読み下し】 九条殿御寺嵯峨往生院領田地・山林等ならびに当坊主私領の事、その方御違乱の由に候、はなはだしかるべからず候、御家門より筑州へ仰せらるる旨候、それにつき相違なく知行あるべきの由申され候、ことに当坊主私に別して申し合わする儀候、御違乱停止せらるべきの由、私より堅く申すべき由に候也、恐々謹言、 【現代語訳】 九条家が支配する御寺である嵯峨往生院領の田地・山林等ならびに往生院の坊主の私領について、あなたが違乱 ( 横領 ) したということである。 非常に不適切なことである。 御家門 ( 九条家 ) から筑州 ( 三好之長 ) に、訴えがあった。 それについて、相違なく九条家が知行すべきであると、三好之長は申された。 ことに、往生院の坊主から私 ( 市原国春 ) に、特に相談があった。 違乱をやめるように、私から堅く申すように、ということである。   【9】市原国春書状案 ( 『九条家文書』 ) 往生院領幷当坊主私領之事、吉田方雖違乱候、為御家門筑州江依被仰、如如先々年貢已下早々寺納あるへき由、堅可申付旨候、無沙汰有間敷候、恐々謹言、 ( 永正四年 )       市原出雲守   九月七日         国春判  往生院百性中 【読み下し】 往生院領ならびに当坊主私領の事、吉田方違乱候といえども、御家門として筑州へ仰せらるるにより、先々の如く年貢已下、早々寺納あるべき由、堅く申し付くべき旨候、無沙汰あるまじく候、恐々謹言、 【現代語訳】 往生院領ならびに、往生院の坊主の私領の事は、吉田 ( 隼人 ) が違乱 ( 横領 ) しているが、御家門 ( 九条家 ) から筑州 ( 三好之長 ) に訴えがあり、先例の通りに年貢以下を往生院に納めるべきであると、堅く命令せよということである。 無沙汰 ( 年貢を納めないこと ) があっ...

北野社領代官職補任状案(『戦国遺文 三好氏編』7号)

  【原文】北野社領代官職補任状案 ( 『筑波大学所蔵北野神社文書』 ) 当社領河内国讃良郡八ヶ所代官職之儀、任御請文之旨預ケ申候、然上者、年貢・諸公事物等、如先々可有納所候、猶不法懈怠者、改易可申候、依補任之状如件、               松梅院雑掌   永正二二年三月廿三日      俊重    三好筑前守殿   【読み下し】 当社領河内国讃良郡八ヶ所代官職の儀、御請文の旨に任せ預け申し候、しかる上は、年貢・諸公事物等、先々の如く納所あるべく候、なお不法懈怠の者、改易申すべく候、よって補任の状、件の如し、   【現代語訳】  北野社領の河内国讃良郡の八ヶ所の代官職のことは、御請文の通り、あなた ( 三好筑前守之長 ) に預けます。  したがって、年貢・諸公事物等は、これまで通りに北野社に納入しなさい。  なお不法行為や怠慢があれば、代官職を取り上げます。  よって補任状は以上の通りです。   【コメント】  年号が永正二二年となっていますが、これは「四年」の意味です。 「四」と書くと「死」と連想されてしまうため、「二」という字を二つ書いて「四」を表す、ということが、日本史上しばしば行われました。  永正四年 ( 一五〇七 ) 、北野社が河内国讃良 ( さらら ) 郡に所有している社領の代官職を、三好之長に任せた史料です。  この頃、三好之長は、管領細川政元の養子・澄元の家臣として行動していました。  松梅院は北野社の有力な子院で、そこの雑掌という役目にある俊重なる僧侶が、この文書を出しています。  主君の細川澄元ではなく、直接に三好之長に対して代官職に補任する文書が出されている点が、面白いと思います。 古書・面白半分HP

三好之長書状案(『戦国遺文 三好氏編』6号)

  【原文】三好之長書状案 ( 『大日本古文書石清水文書』所収辻村豊徳外四人所蔵文書 ) 香川中務丞方知行讃岐国西方元山同本領之事、可被渡申候、恐々謹言、   永正参     十月十二日    之長    三好越前守殿    篠原右京進殿   【読み下し】 香川中務丞方知行讃岐国西方元山同本領の事、渡し申さるべく候、恐々謹言、   【現代語訳】 香川中務丞元網の知行である讃岐国西部の元山 ( 本山 ) と本領を、 ( 元網に ) お渡し下さい。恐々謹言。   【コメント】 三好之長が、三好越前守と篠原右京進に対して、香川中務丞の本領および元山の知行を認めるよう、伝達している文書です。 『大徳寺文書』 771 号によると、香川中務丞は香川元網と名乗っていたことがわかります。 讃岐国西方 ( 西部 ) の元山は、山田郡本山のことかと思われます。 香川元網は、之長の息子の三好元長と一緒に行動するなどしていることから、今回も、何らかの戦功をあげて、本領と新たな知行として元山の支配を認められたものと思われます。  三好越前守と篠原右京進 ( 之良 ) の事績は明らかではありませんが、讃岐の有力者で、三好之長と行動をともにしていた者たちでしょう。 古書・面白半分HP

三好之長書状写(『戦国遺文 三好氏編』5号)

  【原文】三好之長書状写 ( 『大日本古文書石清水文書』所収辻村豊徳外四人所蔵文書 ) 八幡宮領摂州木代庄内朝川寺事、従先師仙室東堂譲被渡候処、彼霊文書記依申掠、六郎殿被成御下地、雖然、訴訟半之事候間、為名主百性中、年貢等拘置候、若背此旨候者、可為不審儀候、恐々謹言、 ( 後筆 ) 「永正参年」    十月十二日     之長   木代庄        三好筑前守    名主百性中   【読み下し】 八幡宮領摂州木代庄のうち朝川寺の事、先師より仙室東堂譲り渡され候処、かの霊文書記申し掠むるにより、六郎殿御下知をなさる、しかりといえども、訴訟なかばの事に候間、名主・百姓中として、年貢等抱え置き候、もしこの旨に背き候わば、不審の儀たるべく候、恐々謹言、   【現代語訳】 石清水八幡宮領摂津国木代庄にある朝川寺のことは、先師 ( 前の住職 ) から仙室東堂が ( 住持職を ) 譲り渡されたところ、あの霊文書記がウソをついて誤魔化したことにより、六郎殿 ( 細川澄元 ) がご命令を下しました。  しかし、まだ訴訟の途中なので、名主・百姓たちは、年貢等を支払わず手元にとどめておきなさい。  もしこのことに背けば、けしからぬ事です。恐々謹言。   【コメント】 永正三年 (1506) 、三好之長が出した文書です。 前号文書 ( 『戦国遺文 三好氏編』 4 号 ) は、三好之長が、摂津国木代庄の支配を担っていた池田遠江守に出した文書でした。 今回は、内容はほとんど変わりませんが、木代庄の「名主・百性中」に対して出されています。 前号文書で見たように、霊文書記という瑞祥寺の僧侶が、木代庄にある朝川寺の住職になろうとたくらみ、朝川寺に居座っています。 木代庄の領主である石清水八幡宮から幕府に訴えがあり、摂津守護の細川澄元から、その配下の三好之長へ命令が下り、こうして之長が文書を出しています。 「訴訟が途中なので年貢を支払うな」とは、相論がまだ解決していない、つまり霊文書記がまだ朝川寺に居座っていることを意味しています。 中世の寺社はアジール ( 治外法権 ) であったため、武家の権力が充分に及ばず、このように相論が長引いているものと思われます。 古書・面...

三好之長書状写(『戦国遺文 三好氏編』4号)

  【原文】三好之長書状写 ( 『大日本古文書石清水文書』所収辻村豊徳外四人所蔵文書 )    池田遠江守殿 御宿所 八幡宮領摂州木代庄内朝川寺事、従先師仙室東堂譲被渡候処、彼霊文書記依申掠、六郎殿被成御下地了、雖然、訴訟半之事候間、年貢等、為名主百性中可拘置之由、堅被仰付候由、可被畏入候、恐々謹言、 ( 永正三年 )      三好筑前守    十月十二日      之長   【読み下し】    池田遠江守殿 御宿所 八幡宮領摂州木代庄のうち朝川寺の事、先師より仙室東堂譲り渡され候処、かの霊文書記、申し掠むるにより、六郎殿御下知をなされおわんぬ、しかりといえども、訴訟半ばの事に候間、年貢等、名主百姓として抱え置くべきの由、堅く仰せ付けられ候由、畏み入れられ候、恐々謹言、   【現代語訳】   池田遠江守殿 御宿所 石清水八幡宮領である摂津国木代庄にある朝川寺の事は、先師 ( 前の住職 ) から仙室東堂が ( 住持職を ) 譲り渡されたところ、あの霊文書記がウソを言って誤魔化したので、六郎殿 ( 細川澄元 ) が ( 仙室東堂が住職だと認めるように ) ご命令を下したのです。 しかし、訴訟はまだ決着していないので、年貢などは、名主・百姓たちは支払わずに手元にとどめておくようにと、 ( 細川澄元が ) 堅くご命令になったということを、ご承知ください。恐々謹言。   【コメント】 永正三年 (1506) ごろ、瑞祥寺に霊文書記という名の僧侶がいました。 霊文 ( りょうもん ) が名前で、書記は寺の役職ではないかと思います。 『石清水文書 拾遺』 48 - 14 ~ 19 を読むと、その霊文書記が朝川寺の住職になろうと考え、相論が起こっていたことがわかります。 以下、『石清水文書 拾遺』も参照して、ことの次第を追いかけてみます。 朝川寺では、先師 ( 前の住職 ) の遺言によって、仙室東堂という僧侶が住職をつとめていました ( 東堂は禅寺のトップの役職 ) 。 ところが霊文書記はあちこちの人物にウソをついて、永正三年 (1506) 九月三日、強引に朝川寺に押し入り、仙室を追い出したようです。 朝川寺のある摂津国木代庄の領主、石清水八幡...

室町幕府奉行人連署奉書(『戦国遺文 三好氏編』参考2号)

  【原文】室町幕府奉行人連署奉書 ( 『大日本古文書石清水文書』所収菊大路文書 ) ( 折封上書 ) 「八幡宮善法寺雑掌 加賀前司清房」 石清水八幡宮領摂津国中嶋内賀嶋庄事、為阿波国萱嶋庄之替地、帯 御判以下度々証文、数年当知行無相違之処、今度号三好筑前守下知、天竺越後守被官人泥堂彦左衛門尉寄事於左右、令強入部云々、言語道断次第也、所詮、為異于他神領之上者、早任奉書之旨、追出押領人、社家弥全領知、可被専神用之由、所被仰下也、仍執達如件、   永正参年四月十七日   加賀前司 ( 花押 )               大和守 ( 花押 )    当宮善法寺雑掌   【読み下し】 石清水八幡宮領摂津国中嶋内賀嶋庄の事、阿波国萱嶋庄の替地として、御判以下度々の証文を帯し、数年当知行相違なきの処、今度三好筑前守下知と号し、天竺越後守被官人泥堂彦左衛門尉、事を左右に寄せ、あながちに入部せしむと云々、言語道断の次第なり、所詮、神領他に異なりたるの上は、早く奉書の旨に任せ、押領人を追い出し、社家いよいよ領知を全うし、神用を専らにせらるべきの由、仰せ下さるる所なり、よって執達件の如し、   【現代語訳】 ( 折封上書 ) 「八幡宮善法寺雑掌 加賀前司清房」 石清水八幡宮領摂津国中嶋内賀嶋庄の事は、阿波国萱嶋庄の替地として、 ( 足利将軍の ) 御判御教書やその他の証文を保持し、数年実効支配していることに間違いないところ、今度三好筑前守之長の命令だと言って、天竺越後守の被官人である泥堂彦左衛門尉が、あれこれ言い逃れをして、無理に領内に入っているといいます。  言語道断のことです。  結局、石清水八幡宮の神領であることに間違いないので、すみやかにこの文書の通りに、押領人 ( 泥堂彦左衛門尉 ) を追い出し、石清水八幡宮がますます支配をして、神社としての働きを全うするべきであるということを、 ( 将軍・足利義澄が ) 仰せになっておられます。  よって通達することは以上の通りです。   永正三年 ( 一五〇六年 ) 四月十七日  加賀前司 ( 花押 )                    大和守 ( 花押 )    当宮善法寺雑掌   【コメント】 戦国時...

古物市場日記 その3 強い業者にドン引きする

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  先日はインフルエンザで発熱したので、市場を休まざるをえなかった。 後遺症で倦怠感がひどく、解熱してからも 1 週間くらい寝ていた。 仕事は 2 週間のロスである。 さて、仕事始めに市場に行くことにした。 「古書・面白半分」は開業して間もない古本屋であるが、開業したばかりの古物商あるあるとして、仕入れが思うようにいかず、在庫が足りないという問題が起こっている。 解決策としては、 ・市場の数を増やす ・一つの市場で落札する品数を増やす ・買取の広告を出す などがあげられる。 古物市場は日本各地に無数に存在しているが、私は現在のところ 1 ~ 2 ヶ所の市場にしか出入りしておらず、この数を増やすことがまずは一つ。 そして、一つの市場でがんばって気合いを入れて、大量に落札するというチカラ技も必要になってくるだろう。 まずはチカラ技を発揮して、大量に、他の参加業者が引くくらいに大量に落札してやろうと、超絶ウルトラ気合いを入れて市場に向かった。 満員電車に揺られ、最寄り駅の自販機でエナジードリンクを補給するという不健康ムーブは、私の市場参加のルーティーンだ。 さあ、火に薪がくべられた。 心は燃える、気持ちは高ぶる。 さて、会場入りして、 1 ヶ月ぶりの市場が始まった。 最初に、侯爵・鍋島直大が大正 4 年 (1915 年 ) に書いた書状を落札できた。 鍋島直大は、最後の佐賀藩主で、鍋島直正 ( 斉正、閑叟 ) の息子にあたる。 「これ以上は出せぬ」という価格よりは安く落札できたので、ホッと一安心した。 あとは、それほど高価ではない和本を少しと、明治から昭和戦前期の賞状やポスターなどを落札。 しかし、在庫枯渇に困窮している私としては、こんなものでは足りないのである。 もっと大量に落札せねば、と思っていた。 すると、江戸時代から明治時代にかけて書かれた和本、主に医学書が、大量に、それこそ数百冊ほど、目の前に出品された。 それらの和本には、図書館の本にあるようなラベルが貼られていたので、医学史の研究者から仕入れた品であろう、と推測された。 とりま、これは欲しいと思った。 ましてや、こちらは在庫困窮者である。 医学書のセリが始まった。 するとどうだろう、 3 ~...

細川成之奉行人飯尾常連奉書(『戦国遺文 三好氏編』3号)

 【原文】細川成之奉行人飯尾常連奉書 ( 『緒形政夫氏所蔵文書』 ) 阿波国中使犬神輩在之云々、早尋捜之、可致罪科之旨、相触三郡諸領主、堅可被加下知之由候也、仍執達如件、   文明四     八月十三日   常連 ( 花押 )    三好式部少輔殿   【読み下し】 阿波国中に犬神を使う輩これありと云々、早くこれを尋ね捜し、罪科に致すべきの旨、三郡諸領主に相触れ、堅く下知を加えらるべきの由に候なり、よって執達件の如し、   【現代語訳】 阿波国に、犬神を使う者がいるといいます。 早くこれを捜索し、処罰しなさい。 阿波三郡 ( 三好・美馬・麻植郡 ) の諸領主に知らせ、堅く命令を下すべきであるということです。 よって通達することは以上の通りです。   【コメント】 文明四年 (1472) 、応仁の乱のころの文書です。 「犬神使い」は秩序を乱す者と見なされていたらしく、阿波守護の細川成之は奉行人・飯尾常連を通じて、「犬神使い」を捜索・処罰するように、阿波三郡の郡代・三好式部少輔に命じています。 三好式部少輔が、阿波三郡で警察権を行使する立場にあったことが分かります。   〈犬神〉いぬがみ 憑物(つきもの)の現象の一つ。また、その憑物の動物霊の名称。ネズミなどの姿をしているともいい、この目に見えない小動物が他人に害をなすという。これをもつ者は女系を伝わって継承するもののようにいい、その家筋は犬神持ちと呼ばれて恐れられ、縁組などを忌避されてきた。中国、四国、九州地方で多くいわれる。 (『日本国語大辞典』) 古書・面白半分HP

細川成之奉行人飯尾常連奉書写(『戦国遺文 三好氏編』2号)

  【原文】細川成之奉行人飯尾常連奉書写 ( 『後藤捷一氏所蔵文書』 ) 阿州三郡段銭内参貫文、可被渡南陽院殿御使由也、仍執達如件、  文明元    七月十一日   常連   三好式部少輔殿   片穂常陸入道殿   逸見豊後入道殿   【読み下し】 阿州三郡段銭のうち三貫文、南陽院殿御使に渡さるべき由なり、よって執達件の如し、   【現代語訳】  阿波国三郡 ( 三好・美馬・麻植郡 ) の段銭のうち三貫文は、南陽院殿 ( 淡路守護・細川成春 ) の御使者にお渡しください、ということです。よって通達することは以上の通りです。  文明元年 ( 一四六九年 )    七月十一日    ( 飯尾 ) 常連   三好式部少輔殿   片穂常陸入道殿   逸見豊後入道殿   【コメント】 阿波守護・細川成之によって阿波国 ( 徳島県 ) に賦課された段銭のうち三貫文を、南陽院殿 ( =淡路守護・細川成春 ) の使者に渡すように、三好式部少輔たち三名に伝達した文書です。 宛所の三好・片穂・逸見の三名は、阿波国三郡の郡代であったようです。 彼ら三名が、段銭徴収を担っていたものと思われます。 古書・面白半分HP

阿波段銭条書写(『戦国遺文 三好氏編』参考1号)

  【原文】阿波段銭条書写 ( 『阿波国徴古雑抄』 ) 条々文正元六十一 一、阿州段銭、近年号河成幷訴訟無沙汰、太無謂、所詮、先々免除支証等不分明在所者、任本目録、堅可致催促事、 一、公物色々運上之時、船水手幷人夫、伝馬、海上警固、上乗等、用次第可申付事、 一、於論所幷欠所分者、任田教 ( 数 ) 、懸百姓可催促事、 一、替銭、国中幷他国諸商人等、専器用可申付事、 一、此間段銭催促之輩、如先々可申付事、 一、於段銭無沙汰在所者、可遣譴使事、 一、東条若狭入道知行料所段銭無沙汰無謂、堅可致催促、別当 ( 而カ ) 令難渋者、可注進事、 一、故三好入道知行分同前、 一、片穂常陸入道、逸見豊後入道知行分同前、 一、中郡大経事、如先々領主可申付事候、   【読み下し】 条々、文正元六十一 一、阿州段銭、近年河成ならびに訴訟と号し無沙汰、はなはだいわれ無し、所詮、先々の免除の支証等不分明の在所は、本目録に任せ、堅く催促致すべき事、 一、公物色々運上の時、船水手ならびに人夫、伝馬、海上警固、上乗等、用次第に申し付くべき事、 一、論所ならびに欠所分においては、田数に任せ、百姓に懸け催促すべき事、 一、替銭、国中ならびに他国の諸商人等、器用を専らにし申し付くべき事、 一、この間段銭催促の輩、先々の如く申し付くべき事、 一、段銭無沙汰の在所においては、譴責使すべき事、 一、東条若狭入道知行料所段銭無沙汰いわれ無し、堅く催促致すべし、別して難渋せしむれば、注進すべき事、 一、故三好入道知行分同前、 一、片穂常陸入道、逸見豊後入道知行分同前、 一、中郡大経の事、先々の如く領主に申し付くべき事に候、   【現代語訳】 条々、文正元年 ( 一四六六 ) 六月十一日 一、阿波国の段銭の事は、近年、河成 ( 洪水による荒田 ) や訴訟だと言って負担に応じようとしない。非常にけしからぬ事である。結局、過去の年貢免除の証拠が明らかでない土地は、本目録によって、堅く段銭を催促すべき事。 一、公物 ( 荘園領主への年貢等 ) を運ぶ時、船水手・人夫・伝馬・海上警固・上乗 ( 船の水先案内人 ) 等は、必要次第に申し付けるべき事。 一、論所 ( 所有権が争われ...

細川成之奉行人飯尾真覚奉書写(『戦国遺文 三好氏編』1号)

  【原文】細川成之奉行人飯尾真覚奉書写 ( 『阿波国徴古雑抄』 ) 阿州三郡御風呂銭事、本員数令承了、細々可勤其役之旨、清三郎・左衛門尉被仰付訖、其分所々可被相触之由也、仍執達如件、   寛正六     二月廿四日   真覚 ( 花押影 )    三好式部少輔殿   【読み下し】 阿州三郡御風呂銭の事、本員数承らしめおわんぬ、細々その役を勤むべきの旨、清三郎・左衛門尉に仰せ付けられおわんぬ、その分所々に相触れらるべきの由なり、よって執達件の如し、   【現代語訳】 阿波国三郡 ( 三好・美馬・麻植郡 ) に賦課する御風呂銭のことは、その合計額を承りました。  念入りにその負担を勤めるべきであるということを、 ( 主君・細川成之が ) 清三郎と左衛門尉にご命令されました。  そのことについて、所々に知らせていただきたいということです。  よって通達することは以上の通りです。   【コメント】 『戦国遺文 三好氏編』の1号文書です。 寛正六 (1465) の文書で、応仁の乱以前のものです。 宛所の三好式部少輔は、戦国時代の三好山城守康長 ( 笑岩 ) の先祖ではないか、という説もあります。 康長の息子が式部少輔を名乗っていたためです。  さて、この書状は、阿波国守護・細川成之の命令を、奉行人の飯尾真覚が、三好式部少輔へ伝達している文書です。  寛正六年 (1465) 、細川成之が、阿波三郡から「御風呂銭」を徴収することを決めました。 「風呂銭」は、『日本国語大辞典』などによると「銭湯の入浴料」とありますが、この史料に出てくる「御風呂銭」はそうではなく、守護が賦課する雑多な税の一つであろうと思われます。  三郡の郡代であったと思われる三好式部少輔は、その本員数 ( おそらく合計額の意 ) を、主君・細川成之に報告したようです。  成之は御風呂銭の徴収の役目を、家臣の清三郎と左衛門尉に命じた上で、三好式部少輔に対して「そのことを所々に知らせよ」と命令を下しています。 古書・面白半分HP

【古文書を読む】コンドームの歴史 紀元弐千五百三拾四年 売上帳

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  紀元弐千五百三拾四年 売上帳 【状態】痛みが激しい、ヤケ、汚れ、スレ、シミ、 16 × 38.5cm   紀元 2534 年=明治 7 年 (1874) に作成された、ある商家の売上帳。 「ルウテサク」「ルウテ」=ルーデサック ( コンドーム ) が取引されていたことが分かって興味深い。 日本にコンドームが輸入されたのは明治初年ごろとされ、この資料に見える「ルウテ」は、当時の最新商品であった。 1858 年の安政の五ヶ国条約によって、ヨーロッパから輸入されたものと見られる。 「開国」が日本にコンドームをもたらしたといえる。 世界史的にみると、コンドームは16~17世紀ごろから使われた記録があるといわれ、梅毒予防が目的だった。 最初は、リネン製のものや「フィッシュスキン」とよばれる動物の盲腸や膀胱 (ぼうこう) 、魚のうきぶくろを利用したものであった。 ラテックスゴム製のものは19世紀になって現れ、スキンとかサックとよばれた。 「コンドーム」という名称の由来は、17世紀なかばごろイギリス王室の侍医コントンContonによるとも、ラテン語のCondus(容器の意)によるともいわれている。 日本へは明治の初めに持ち込まれ、国産のゴムコンドームは1909年(明治42)ごろから発売された。 おもに軍隊を通じて普及し、性病予防の目的で軍需品扱いを受け、マッチ箱様のケースに2個入った通称「衛生マッチ」が休暇外出のたびに手渡された。 おもに陸軍では「突撃一番」、海軍では「鉄かぶと」とよばれた。 日本製のコンドームは品質が優れており、明治時代には輸入品だったが、現在では輸出もされている。 古書・面白半分HP

【古文書を読む】鳥居丹波守忠燾書状 土岐山城守頼布宛 寛政八年カ

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  鳥居丹波守忠燾書状 土岐山城守頼布宛 寛政八年カ 【状態】シミ、 35.7 × 48.7 ㎝   【翻刻】 貴札致拝見候、冷気 之節候得共、弥御堅固、 珍重存候、拙者儀、道中 無滞致在着候ニ付、 為御歓預示候趣、被入 御意儀、忝存候、恐惶謹言、         鳥居丹波守  九月廿三日  忠燾 ( 花押 )  土岐山城守様       御報   【読み下し】 貴札拝見致し候、冷気の節に候えども、いよいよ御堅固、珍重に存じ候、拙者儀、道中滞りなく在着致し候に付き、御歓びとして示しに預り候趣、御意に入れらるる儀、かたじけなく存じ候、恐惶謹言、   【現代語訳】 お手紙を拝見いたしました。寒い季節ですが、ますますお元気でおられて、おめでたく存じます。私のことは道中に問題なく、江戸に滞在していますので、それについてお祝いにお手紙を頂き、あなたのお心にかなったことは、ありがたく存じます。恐惶謹言。   【解説】 【 1 】鳥居忠燾について 鳥居丹波守忠燾 ( ただてる。 1777 ~ 1821) が、土岐山城守に宛てた書状である。 彼は、関ヶ原の戦いに際して伏見城で戦死した徳川家康の重臣・鳥居元忠の子孫にあたり、鳥居家は譜代大名の名門であった。 忠燾は、下野・下総・大和・播磨に、あわせて 3 万石の領知をもち、下野壬生藩の第 4 代藩主となる。 彼は、鳥居忠見 ( ただみ。 1746 ~ 94) の二男として生まれ、幼名を燾三郎 ( とうさぶろう ) といった。 兄・亀五郎は、早世している。 父・忠見は寛政 6 年 (1794)5 月 12 日、 49 歳で死去する。 父は嫡子であったが、まだ家督を継いでおらず、藩主の座にはついていなかった。 そこで忠燾は同年 7 月 5 日、藩主である祖父・忠意 ( ただおき。 1717 ~ 1794) の嫡孫承祖 ( ちゃくそんしょうそ ) となる。 これは、祖父から家督を相続することを指す言葉である。 しかしそれからわずか 13 日後の 7 月 18 日、祖父・忠意も死去してしまう。 忠燾は 9 月 6 日、鳥居家の遺領を継承し、 12 ...

【古文書を読む】「甲州地震」 安政東海地震(南海トラフ巨大地震)の史料

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  「甲州地震」と題する史料で、甲州 ( 山梨県 ) の地震被害を報告している。 紙質から江戸時代ごろの史料と思われるが、いつの地震を記したものか、推測してみたい。 地震が発生した日と時間について、「当月四日辰中刻」と記されている。 江戸時代の甲州で、「四日の辰の中刻 (8 時 20 分 ) 」ごろに起こった地震としては、嘉永 7 年 ( 安政元年、 1854 年 )11 月 4 日 ( 新暦では 1854 年 12 月 23 日 ) の「安政東海地震」が考えられる。 これは「南海トラフ巨大地震」のひとつとされ、津波や家屋の倒壊・火災によって、数千人が死亡したと推測されている。 地震の規模はマグニチュード 8 クラスと推測されている。 また、この地震の翌日には、南海地方 ( 四国地方 ) で同規模の「安政南海地震」が発生した。 この史料は甲州の地震を伝えたものであるため、津波の被害については言及がないが、甲州では特に家屋の倒壊被害が大きかったことが記されている。 この時の「南海トラフ巨大地震」からすでに約 170 年が経過しており、現代の日本では次の「南海トラフ巨大地震」への対策が叫ばれている。   【翻刻】    甲州地震 一、当月四日辰中刻、大地震ニ付、八日町通 壱丁目、表通、左表筋之弐丁目中程迄、 魚町三丁目中程、同町弐丁目西かわ、 大半壊、山田町壱丁目少し、柳町壱丁目 中程大半壊、同町弐、三、四丁目共壊家 少し、連尺町壱丁目中程、大半壊れ、 片保町ゟ西之方、無記、金子町ゟ東方 無記、八日町ゟ南連尺町迄、大地震□、 魚町五丁目、桶屋町抔も余程壊し 相成、此段御しらせ申候、 古書・面白半分HP

古物市場日記 その2 ~タミフルで異常行動をとる古本屋?~

市場の前日、英気を養おうと思い、銭湯に行った。 濡れた髪の毛もよく乾かさず、風呂上り直後に 20 ~ 30 分の道のりを歩いて帰ってきたら、その日の夜から発熱しはじめた。 頭痛と猛烈な咳が出て、一睡もできず。 朝、体温計は 38 度を示し、市場は休むことにした。 コロナの抗原検査キットを使ったら、陰性だった。 病院には行かず、様子を見ることにした。 その日の夜も咳が激しく、二日連続で完徹である。 早朝に発熱外来を WEB 予約し、夕方病院に行った。 マスクから鼻を出しているちょっとおいおいな医師の診察を受け、看護師さんに PCR 検査用の綿棒を鼻に突っ込まれる。 検査結果は数分で判明。 「インフルエンザ A 型ですね」 とのこと。 薬局でインフルエンザ治療薬のタミフルや、一般の風邪薬をもらって帰宅。 夕食後にタミフルなどを飲んだが、このタミフルという薬は、副作用で「異常行動」があらわれる場合があるというのは、ちょっと有名な話だろう。 タミフルが原因だと断定はできないが、その夜、私は朦朧とした意識のなか PC に向かい、衝動のままに Google や YouTube でいろいろなワードを検索した。 翌日、検索履歴には、「魔改造 ガンダム」とか「悪いヤツを処分しろ」とか、意味のわからない不気味なワードが残されており、ちょっと気持ちが悪かった。 次回の市場までには完全回復して、魔改造されたガンダムのごとき猛烈な勢いで、商品を落札するつもりである。 古書・面白半分HP

古物市場日記 その1 ~古文書と和本を仕入れる~

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  今日、古物市場 ( 業者のオークション ) で商品を仕入れてきた。 和本 17 冊と、「奥州会津御料所 野尻組五ヶ村文書」という古文書群を落札した。 ( ちなみにこの文書群名は私が付けた )   もっとたくさん仕入れたかったが、なかなか思いどおりにはいかない。   オークションの当日朝、次のようなメモを作った。   “10.12 意気込み ・欲しい物は根こそぎ買う。競ってでも買う。特に古文書・和本。 ・他の強い業者に忖度しない。恐れない。根こそぎものにする。 ・金がかかっても大量に仕入れる。他の業者が引くくらい強気に買う。“   私のような新米古本屋は経験が浅いので、仕入れの前にこのように気合いを入れて、オークションに参加するのである。 ようするにビビっているから、こうしたイキリ・メモをつける。 そしてオークションの前に、トイレの個室で読み返したりする。 それで実際、根こそぎ大量にみんなが引くくらい強気に買えるかというと、情けないことにそんなことは全然ないのである。 「アレは自分が落とさないといけないだろ!」 とか、 「なぜアレに声を上げなかった ( 入札しなかった ) !」 など、あとから後悔することが多い。 オークションには多数の業者が参加しており、経験豊富な猛者のごとき彼ら、彼女らの雰囲気に圧迫される。 気おされて、欲しかった出品も、思うように落札できない場合も多い。 この商売は、資金や相場の知識も必要だけど、これだけは言える。 なにより度胸が大事なのだ。 古書・面白半分HP

古物市場に登場する「エロ本」について

  私が参加している某古物市場 ( 業者の集まるオークション ) は、毎回いわゆる「エロ本」が出品されます。 この某市場では、おもに古本・歴史資料や美術品・骨董品などが出品されることが多いのですが、そのなかに毎回必ず、「エロ本」も入っています。 ひとくちに「エロ本」といっても、色々な種類があります。   ①      春画 江戸時代に書かれた和本で、春画 ( 性行為を描いた絵 ) がのっているものがあります。 春画は巨大な男性器が、巨大な女性器をつらぬいているグロテスクなものが多く、ちょっと圧倒されます。 私は新米の古本屋なので相場はよく知りませんが、市場に春画が出品されると、複数の業者が入札して競り合い、けっこうな高値がつきます。 「そんな高値で落札して、いくらで売るの!?」 と正直思ってしまうくらいです。 わが「古書・面白半分」はいまのところ春画はあつかっていませんが、そのうち手を出して売り始めるかもしれません。 乞うご期待 ( ? ) 。   ②      エロ写真集 ヌード写真集に代表される、エロ写真集が出品されることもあります。 ソフトなヌードから、縄で縛ったりしてるSM系、なかには排泄物をアレしてるスカトロ系も。   ③      エロ雑誌 エロい写真や漫画などがのっている雑誌です。   ④      エロ漫画 ( 単行本 ) エロ漫画の単行本です。 すんごくエロエロなやつも出品されたりします。   ⑤      エロ漫画 ( 薄い本 ) エロ漫画のなかでも、いわゆる「薄い本」、つまりエロ同人誌です。 コレクターが売り払った場合など、 100 冊くらい一度に出品されたりすると、ちょっと壮観です。   適当に五つに分類してみました。 市場には、女性の業者さんも参加されていますが、こういったエロ本も、熱心に観察して品定めしています。 一般的に女性の前で下ネタ発言をするとセクハラ...

古本屋になるには~陰キャが行政書士に依頼して「古物商許可証」を取得するまで~

  古本屋になるためには、「古物商許可証」という、営業許可証が必要になります。 これは書類をそろえて警察署に提出すれば、誰でも取得できます。 ( ただし犯罪歴などがある場合を除きます ) 警察に申請するとき、手数料として 1 万 9000 円が必要になります。 ただ、この書類申請がやっかいというか、役所に行って色々な書類を集める必要があり、面倒くさいです。 この面倒くささをビジネスチャンスにしているのが、行政書士です。 行政書士に依頼すると、この超絶ウルトラ面倒くさい書類手続きを、すべて丸投げでやってくれます。 ただし、そこはもちろんビジネスですから、行政書士に依頼した場合、 5 万円ほどの経費が追加で必要になります。 ご自分で書類をそろえて無事に申請が通る方も、もちろんおられるのですが、なかには書類の不備ではじかれる場合もあります。 僕は、陰キャなので、自分で書類をそろえて警察と折衝 ( ? ) する自信がなくて、「ポリスにはじかれたらどうしよう」とビクビクしたあげく、行政書士さんに依頼しました。 行政書士事務所とのやり取りが数回ありましたが、すべてメールですので、陰キャにもメンタル的負担は少なかったです。 書類の準備から提出まで、すべて行政書士にやってもらいました。 先に「メンタル的負担は少ない」と書きましたが、そこはやはり陰キャゆえ、許可がもらえるまで、「書類の不備があったらどうしよう」と、ビクビクしていました。 書類を提出してから 1 ヶ月ほどして、警察署から電話があり、「許可が通りました」とのことでした。 どちゃくそ安堵しました。 警察署に「古物商許可証」を受け取りに行き、警察の方から、いくつかの説明を受けました。 古本屋に限らず、古物をあつかう古物業者は、許可証を取得すると、プレートを作る必要がある、とそこで言われました。 プレートは、紺地に白色の文字で「許可番号」と「業者名」または「氏名」を記し、大きさも 8 ㎝× 16 ㎝と決まっています。 警察署でお巡りさんから説明を受けたときは、「ホームセンター●●に行けば、作ってくれる」とのことだったので、さっそく出かけて行き、見積もりを依頼しました。 ところが、ホームセンター●●では、紺地に白色というプレートを取り扱っておらず...